直径(ちょっけい)10 m、高さ2 mほどの円墳(えんぷん)です。古墳時代後期(こふんじだいこうき)のものです。
墳頂(ふんちょう)には、2つのお地蔵(じぞう)さんと桜井中開道(なかがいと)の円光寺(えんこうじ)住職(じゅうしょく)の順正(じゅんしょう)の墓(はか)があります。小さい地蔵は悪魔(あくま)や疫病神除(やくびょうがみよ)けの石仏(いしぼとけ)で、大きい方は子供を抱く姿の子安地蔵(こやすじぞう)です。子供やお産(さん)をするお母さんを守って下さる仏さんと信じられています。この地方最古(さいこ)の石仏です。
1564年、三河一向一揆(みかわいっこういっき)のとき、岡崎城(おかざきじょう)の松平(まつだいら=後の徳川)家康(いえやす)の軍勢(くんぜい)と本證寺(ほんしょうじ)などの一向衆(いっこうしゅう)とが、この付近(ふきん)一帯(いったい)で戦(たたか)いました。「安政(やすまさ)の戦い」と言います。寺側(てらがわ)は劣勢(れっせい)となり、重傷(じゅうしょ)を負(お)ってしまっていた順正(じゅんしょう)は、その時の大将(たいしょう)本證寺空誓(くうぜい)の身代(みがわ)りになって死(し)のうと決心(けっしん)したのです。この古墳の上に立ち「われこそが本證寺空誓なり。」と名乗(なの)って腹(はら)を切り、剣(けん)の先(さき)を口に咥(くわ)えて崖(がけ)から転(ころ)げ落(お)ち死にました。壮絶(そうぜつ)な最期(さいご)だったと言われています。このため空誓は助(たす)かり、足助(あすけ)に逃(に)げ落ちたと伝(つた)えられます。