大屋長太夫の碑(おおやちょうだゆうのいしぶみ)

三代将軍(しょうぐん)家光(いえみつ)の頃、小向(こむかい)に住む庄屋(しょうや)の大屋長太夫と源衛(げんえい)の兄弟(きょうだい)は、大張(おおちょう)から小向にかけての低い農地(のうち)では、たびたび水害(すいがい)で農作物(のうさくもつ)の不作(ふさく)が続きました。年貢(ねんぐ)を納(おさ)められないので、「願い書(ねがいしょ)」を書いて江戸(えど)へ行き、将軍に直訴(じきそ)し年貢を減(へ)らしてもらったと言い伝えられています。この時、長太夫は直訴の機会(きかい)を待つ間に、願いをこめて紙縒り(こより)を縒(よ)り、帯(おび)を編(あ)みました。チャンスがなかなか来ないので帯の長さは360 cmにも伸びてしまいました。その帯は今も大屋家に残されています。

願いは叶(かな)えられましたが、長太夫と源衛は死刑(しけい)となりました。村人は二人の行いを讃(たた)えて、のちに石碑(せきひ)を建てました。石碑には「捨己済他(おのれをすててひとをすくう)」と書いてあります。