一本松(いっぽんまつ)

一本松

江戸時代(えどじだい)初めのことです、桜井村(さくらいむら)と和泉村(いずみむら)とが地境(じざかい)の主張(しゅちょう)が異なり、全村民が鍬(すき)や鎌(かま)を持っての争いに発展(はってん)してしまいました。桜井村へ和睦(わぼく)にいった和泉村の七衛門(しちえもん)が犠牲(ぎせい)になりました。

枝ぶりの立派(りっぱ)な一本松があるのは、桜井村に通じている大浜(おおはま)・岡崎(おかざき)街道です。1623(元和9)年、五ヶ野原(ごかのがはら)はやせた赤松(あかまつ)やススキの荒地(あれち)で狐(きつね)や狸(たぬき)の住む原野(げんや)でした。大部分は人の使わない土地でしたが、人口(じんこう)が増えてくると薪(たきぎ)や落ち葉を採たり、台地の中の水溜(みずたま)りを見つけては、周(まわ)りを開墾(かいこん)したりして、奥へ奥へと耕(たがや)す土地を求めて進み、二つの村が衝突(しょうとつ)したのです。当時、碧海台地(へっかいだいち)の村ではどこも同じような争(あらそ)いがありました。

命を投げ打って役目(やくめ)を果たそうとした七衛門には山林(さんりん)が与えられ、領主(りょうしゅ)からは「久津名(くつな)」と言う名字(みょうじ)が与えられました。そして7年後は、『久津名七衛門』と名を彫(ほ)り付けた石碑(いしぶみ)が立てられ、松を一本植えて忘れないようにしました。現在の松は二代目であります。

石碑の横には、道標(みちしるべ)があり、「左 をかざき道 右 さくらい道」と刻(きざ)まれています。その当時は、道標がないと迷路(めいろ)で迷子(まいご)となってしまう見通しの悪いところでした。現在は圃場整備(ほじょうせいび)が進み、広々と田園(でんえん)が広がるので、北は御嶽(おんたけ)、恵那(えな)。東は三ヶ根(さんがね)、八面(やつおもて)。西は鈴鹿(すずか)、養老(ようろう)、伊吹(いぶき)が見渡せる風景(ふうけい)です。