丈山文庫と学甫堂(がくほどう)
石川丈山(いしかわじょうざん)は、武士(ぶし)を辞(や)め、広島(ひろしま)の浅野家(あさのけ)に仕官(しかん)するまでの間、京都で藤原惺窩(ふじわらせいか)に朱子学(しゅしがく)を学んでいました。
広島へ赴(おもむ)いて14年目、1635(寛永12)年、53歳の時、母が他界(たかい)したのをきっかけにみずから志す道に進もうと広島を去り、京都相国寺(そうこくじ)のほとりに住みました。広い屋敷の竹林(ちくりん)や松などの自然に繁った庭を造り、ここを「睡竹堂(すいちくどう)」と命名していました。この中の書斎(しょさい)に充(あ)てたところが「学甫堂」です。学甫堂は三畳(じょう)の茶室風(ちゃしつふう)の造りで、後に一乗寺(いちじょうじ)に建てられた「詩仙の間(しせんのま)」によく似ており、詩仙堂(しせんどう)の前身だろうと言われています。
1969(昭和44)年、荒廃(こうはい)に任(まか)されながらも僅(わず)かに現存していた学甫堂を、安城市和泉町(石川丈山の生まれ故郷)の神谷氏が自宅(じたく)の庭に移築(いちく)・復元(ふくげん)し、その周辺に丈山愛好(あいこう)の竹林(ちくりん)と清泉(せいせん)をひき、燈籠(とうろう)や蹲(つくばい)なども配置して京都の自然と、丈山の俤(おもかげ)を偲(しの)んでいました。