弥厚公園
都築弥厚(つずきやこう)の銅像(どうぞう)は、1918(大正7)年に北本郷古墳(きたほんごうこふん)の上に建てられています。1944(昭和19)年には金属(きんぞく)の供出(きょうしゅつ)に遇(あ)いましたが、1951(昭和26)年2月に再建(さいけん)されました。このときは村では餅投(もちな)げをし、花火(はなび)を打ち上げて祝いました。その後、毎年9月10日の命日(めいにち)に、町内会及び関係者によって弥厚祭(やこうさい)が行われています。
弥厚は1765(明和2)年に三州和泉村(さんしゅういずみむら)で生まれ、幼名(ようみょう)を弥四郎(やしろう)と言いました。都築家は代々造り酒屋(つくりざかや)で、新田経営(しんでんけいえい)などもする富豪(ふごう)でした。また、寺や神社に多額(たがく)の寄進(きしん)をする名士(めいし)の家柄(いえがら)でもありました。48歳のとき領主(りょうしゅ)の代官(だいかん)に任命(にんめい)されたので名字帯刀(みょうじたいとう)を許されています。
当時の碧海郡(へっかいぐん)は、洪積(こうせき)台地にあって水が乏(とぼ)しく、新田開発(かいはつ)を行うには困難(こんなん)な土地でした。弥厚は矢作川(やはぎがわ)の水を引き灌漑(かんがい)・開墾(かいこん)することを思いつきました。高棚村(たかたなむら)の和算家(わさんか)・石川喜平(いしかわきへい)の協力(きょうりょく)を得て、測量(そくりょう)をしました。測量は5年もの年月が掛(か)かりましたが、35km以上におよぶ用水路(ようすいろ)の図面(ずめん)を引き、個人(こじん)の利益(りえき)の為にやるのではない、生産の増加(ぞうか)は国益(こくえき)になる、と強調(きょうちょう)して嘆願書(たんがんしょ)を提出しました。江戸(えど)への出府(しゅっぷ)を重ね、やっとの思いで許可(きょか)を取り付けました。
そして、複数(ふくすう)の領主(りょうしゅ)や地元農民(のうみん)の反対を説得(せっとく)し、開鑿(かいさく)費用の捻出(ねんしゅつ)に走り回り、着工(ちゃっこう)に漕(こ)ぎ付ける寸前(すんぜん)、1833(天保4)年4月病(やまい)に倒れ、9月10日、計画を実現(じつげん)できないまま69歳で他界(たかい)しました。弥厚の借財(しゃくざい)は25,000両(りょう)に達していたと言われています。
その50年後、岡本兵松(おかもとひょうまつ)と伊予田与八郎(いよだよはちろう)の2人が計画を引(ひ)き継(つ)ぎ、1880(明治13)年、明治用水は完成(かんせい)いたします。都築弥厚は明治用水功労者(めいじようすいこうろうしゃ)として、岡本兵松、伊予田与八郎らとともに明治川神社(めいじがわじんじゃ)に祭神(さいじん)として奉(まつ)られています。
弥厚は俳句(はいく)の嗜(たしな)みもあったようで「和楽(わらく)」と言う俳号(はいごう)を持っていました。特に、同郷(どうきょう)の石川丈山(いしかわじょうざん)には思いを深くしており、芭蕉(ばしょう)が京都詩仙堂(しせんどう)を訪(たず)ねたときに狩野探幽(かのうたんゆう)が描いた丈山の寿像画(じゅぞうが)を見て詠(よ)んだ句を石碑(せきひ)に刻(きざ)んで自宅(じたく)屋敷内(やしきない)に置いていました。それがよく読めないので新しく作り直してこの公園に置きました。
♪ 風かほる はをりはゑりも つくろはす (かぜかおる はおりはえりも つくろわず)♪ はせを翁(ばしょうおう) 和楽建