保科正直邸跡(ほしなまさなおていあと)

正法寺(保科正直邸跡)

保科正直(ほしなまさなお)が、高遠(たかとお)の城主(じょうしゅ)であった頃は武田氏(たけだし)の家臣(かしん)でした。武田が滅亡(めつぼう)「1584(天正12)年頃」すると、徳川家康(とくがわいえやす)の勧(すす)めで妹・多劫姫(たけひめ=後の長元院)の婿(むこ)となり、徳川に仕(つか)えます。1590(天正18)年、家康の関東入りまでの間、山崎村(やまざきむら=現在の安城市山崎町)に住んだとされ、その館跡(やかたあと)が現在、真宗大谷派の寺院・正法寺(しょうぼうじ)となっています。

この保科家には将軍家(しょうぐんけ)との関りが深く、時代(じだい)が進み昭和(しょうわ)まで徳川家と慶(よ)い関係(かんけい)が続きます。

皆様ご存知の二代将軍秀忠(ひでただ)の隠子(かくしご)と言われる保科正之(まさゆき)は、幼名(ようみょう)を幸松丸(こうまつまる)と言い、母親が知り合いであるということで正直の嫡男(ちゃくなん)である正光(まさみつ)に預けられます。正光は、正直と同様に家康の元で良く働き、家康と共に関東入りでは、下総国(しもふさのくに)多胡藩主(たこはんしゅ=千葉県香取郡多古町)に座ります。関ケ原の戦いでも戦功(せんこう)を挙げ、幸松丸を預かる時は、正直の旧領地(きゅうりょうち)である高遠に返り咲いていました。将軍のご落胤(らくいん)を預かるならと①自分が死ぬまでには秀忠に会わせること②自分の後継ぎ(あとつぎ)として育てることの二つを約束(やくそく)し、文書(ぶんしょ)に認(したた)めています。その当時、正直と多劫姫の間に出来た正貞(まささだ)を養子(ようし)としていたので廃嫡(はいちゃく)させて正之を嗣子(しし)としました。このことを知っていた正之は会津藩主(あいずはんしゅ)になる時、保科家の財産(ざいさん)を全て正貞に譲(ゆず)り単身(たんしん)で会津に赴(おもむ)きました。正之31歳、正貞55歳の時でした。その後も正貞は良く働き5年後には加増(かぞう)されて、上総国(かずさのくに)飯野(いいの=千葉県富津市)藩主となり子孫(しそん)は明治維新(めいじいしん)まで続きます。昭和になり正昭(まさあき)子爵(ししゃく)の嗣子・光正(みつまさ)は、徳川宗家17代・家正(いえまさ)の三女・順子(ゆきこ)を飯野の保科家に迎えています。結婚式は、1941(昭和16)年11月9日でした。