岡本兵松像(おかもとひょうまつぞう)

岡本兵松(おかもとひょうまつ) 1821(文政4)~1897(明治30)年

石井町辻原(いしいちょうつじはら)の県道沿いに、石井辻原遊園と言う小さな公園があります。岡本兵松の銅像(どうぞう)はこの公園の中に建っています。明治用水建設(けんせつ)の功労者(こうろうしゃ)です。北大浜村鶴崎(きたおおはまむらつるがさき=現在の碧南市新川町鶴崎)に生まれ、幼名(ようみょう)は篠吉(しのきち)と言います。家業(かぎょう)は味噌醤油製造業(みそしょうゆせいぞうぎょう)と廻船問屋(かいせんどんや)を営む岡本兵右衛門の分家(ぶんけ)で沼津藩(ぬまずはん)のご用達(ようたし)を勤(つと)めていました。28歳のときに西尾藩(にしおはん)の娘と結婚し帯刀(たいとう)を許され、相当(そうとう)の資産家(しさんか)でありました。

1849(嘉永2)年、都築家(つずきけ)所有の石井新田(しんでん)を購入して開拓農民(かいたくのうみん)となりましたが、ここの土地は水不足(みずぶそく)で作物(さくもつ)が育たず用水路(ようすいろ)の必要性(ひつようせい)を認識(にんしき)します。この時、都築弥厚(つずきやこう)の用水計画(けいかく)を知り、開鑿(かいさく)の申請(しんせい)をします。一方、豊田(とよだ)の伊予田与八郎(いよだよはちろう)は水田の排水改善(はいすいかいぜん)の為の水路(すいろ)の開鑿を計画していました。明治維新(めいじいしん)の混乱期(こんらんき)になっており、役所が目まぐるしく変わり、たらい回しにされたりしましたが、二つの計画を一つにすることで許可(きょか)が出ました。1868(明治元)年のことです。役所は愛知県(あいちけん)となりました。

工事(こうじ)は順調(じゅんちょう)に進み、1880(明治13)年、通水式(つうすいしき)が行われ、ときの内務卿(ないむきょう)松方正義(まつかたまさよし=後の総理大臣)も参列(さんれつ)しました。

私財(しざい)を全て使い果たした兵松は、用水の完成(かんせい)は見ましたが、みずからへの受益(じゅえき)は皆無(かいむ)で、晩年(ばんねん)は妻(つま)が駄菓子屋(だがしや)を営(いとな)み、兵松は寺子屋(てらこや)を開いて暮らしたと言うことです。1897(明治30)年10月6日、76年の生涯(しょうがい)を閉じました。翌々年、自宅裏の公園に明治用水開鑿の父としての記念碑(きねんひ)が建てられました。明治川神社(めいじがわじんじゃ)には、都築弥厚や伊予田与八郎らと共に神様として祀(まつ)られています。公園の隣(となり)には今も兵松が晩年を暮らした家屋(かおく)が残っています。

行く川に 青田の風や 村つづき  大林居