徳川十六神将の高木清秀(たかぎきよひで)は安城市高木町(あんじょうしたかぎちょう)の出身(しゅっしん)で、三河一向一揆(いっこういっき)で家康(いえやす)に味方(みかた)し戦功(せんこう)をあげました。1590(天正18)年家康の関東移封(かんとういふう)の際(さい)は、相模国(さがみのくに)に5千石の領地(りょうち)をもらい、その後、加増(かぞう)を経て河内国丹南(かわちのくにたんなん=大阪府松原市)1万1千石の大名(だいみょう)となりました。三笠宮(みかさのみや)崇仁親王(たかひとしんのう)に嫁(とつ)がれ、ヒゲの殿下・三笠宮寛仁親王(ともひとしんのう)の母上(ははうえ)になられた百合子妃(ゆりこひ)は高木氏のお姫様でした。