箕輪城址
1532(天文元)年、浅井治兵衛道介((みちすけ)が築城しました。浅井氏は、近江八幡(おおみはちまん)の出身で、幡豆郡(はずごおり)浅井村(現西尾市)に移り住んだので、浅井氏を名乗りました。
箕輪城を築いたころは、桜井松平の信定(のぶさだ)と、刈谷や尾張との連絡役をしていたと思われます。その様子は安城側(松平宗家)にも見えており篠目(ささめ)城主に見張りをさせていました。
1542(天文11)年に、篠目城主が機会を得て、浅井氏を倒したものと思われます。詳細は記録に残されておりませんが、規模(きぼ)は小さく、戦と言うよりは喧嘩(けんか)の大きなもので、両軍合わせても数人から十数人であったであろうと明治村史(めいじそんし)に書かれています。これを「榎前(えのきまえ)おとけさの戦い」と言います。討ち死にをした浅井道介には幼少(ようしょう)の子供がおりまして、桜井松平が引き取って養育(よういく)しました。その子供は立派に成長して「浅井道忠(みちただ)」と名乗ります。桶狭間(おけはざま)の戦いのとき、今川義元(よしもと)が討ち取られた直後、大高城(おおだかじょう)に孤立(こりつ)した松平元康(後の徳川家康)を水野信元(みずののぶもと)の命令で岡崎まで送り届けたのがこの道忠なのです。
城の機構(きこう)は、堀の一部が明治の初期まで、現在の光明寺本堂裏に残っていました。
光明寺(こうみょうじ)
光明寺は、真宗大谷派の寺です。1690(元禄3)年に駒場村から現在地の北で、県道とバイパスとの交差点直ぐ西側の西方畔と言うところに移転してきました。1734(享保19)年になって、「西方山光明寺(さいほうざんこうみょうじ)」と言う名前が本山(ほんざん)より許され、その10年後(延享元年)、現在の地(箕輪城址)に移転しました。今の本堂は、江戸時代の終わり頃に改築されたものです。
道標(みちしるべ)
山門(さんもん)の左側に道標があり、「左 にしを(西尾)のてら道(野寺道)、右 ふくかま(福釜)」と刻まれています。伊勢詣(いせもう)でで親しくなった友人が、別れを惜しんだところだと言われています。この道標は、江戸末期に本證寺(ほんしょうじ)の信徒によって建てられたもので、元は、箕輪町新芳畔(しんよしくて)の西尾街道沿いにありました。