震災死者精霊所(しんさいししゃせいれいしょ)

震災死者精霊所

第二次世界大戦の終戦(しゅうせん)が近い1944(昭和19)年12月7日正午(しょうご)ころ、激しい震れが、この地方を襲(おそ)いました。東南海地震(とうなんかいじしん)です。さらに、37日後の翌年1月13日午前3時38分、追い討ちをかけるように三河大地震(みかわだいじしん)が襲来(しゅうらい)したのです。二度目は、深夜(しんや)で多くの人が就寝中(しゅうしんちゅう)であったことで、死者は80名を超える大きな災害(さいがい)になりました。ところが、時の政府(せいふ)は戦地(せんち)にいる兵隊(へいたい)の士気(しき)が落ちるのを恐(おそ)れ、報道(ほうどう)を統制(とうせい)したため、国内にも知らされず、援護(えんご)の手はさし伸ばされることがありませんでした。わずか、村内の海軍航空隊(かいぐんこうくうたい)からの助力(じょりょく)を得て負傷者(ふしょうしゃ)の手当てや、遺体(いたい)の処置から倒壊物(とうかいぶつ)の撤去(てっきょ)まで、若い男の力の無いなか、自力(じりき)で復興(ふっこう)に向かいました。

遺体(いたい)の火葬(かそう)は、立ち上る煙(けむり)が目印(めじるし)になるからと許(ゆる)されず、運び込まれた順に棺(ひつぎ)に入れ読経(どきょう)の中、深さ2mほどに掘った中に頭を西に向け、手まえから大人を4段に積んで並べ、子供は後方南に埋葬(まいそう)されました。

震源地(しんげんち)は三河湾(みかわわん)、震源の深さ10km以下の浅いところ、地震の規模(きぼ)はM7.1と推定(すいてい)されています。

この地震により三河湾は、1メートル以上隆起(りゅうき)して海岸線(かいがんせん)が変わったそうです。震度7を記録したところは、明治村、桜井村、三和村、横須賀村、福地村。震度6は西尾町、室場村、平坂町、寺津町、一色町、吉田町、幸田町など24市町村でした。

和泉町では、昭和32年に、十三回忌(じゅうさんかいき)として共同の震災墓碑(ぼひ)を建てて冥福(めいふく)を祈りました。以下は石碑(せきひ)の原文(げんぶん)です。

「震災死者精霊所 昭和廿年1月13日午前3時40分三河地方の大激震により一瞬にして和泉区内4百余戸の内倒壊家屋3百余戸に及び死者83名に達す。 時恰も太平洋戦争の只中にて空襲のため火葬に附すに能わず隣接航空隊の協力によりこの地に埋葬し爾来十四年を経てその十三回忌を期して、和泉町民と遺族相謀りこの墓碑を建立し冥福を祈る  昭和32年1月13日   和泉町住民組合  遺族一同」