小橋の抱き上げ地蔵(こばしのだきあげじぞう)

小橋の抱き上げ地蔵

碧海台地(へっかいだいち)が半場川(はんばがわ)の低地(ていち)に落ち込む境目(さかいめ)は松林(まつばやし)と竹薮(たけやぶ)が連(つら)なるところで、油ヶ淵(あぶらがふち)に通じる北浦(きたうら)の入り江だった。その頃から半場川に架(かか)る橋を大橋(おおばし)、新田川(しんでんがわ)に架る橋を小橋(こばし)と言っていました。この小橋の袂(たもと)にお地蔵さんがあります。低い土地(とち)は、圃場整備(ほじょうせいび)によって高くなり、道路や橋も改修(かいしゅう)されて、現在の傾斜(けいしゃ)はそれほど苦になりませんが、かつては、荷車(にぐるま)を引いた牛や馬も泡(あわ)を吹いて立ち止まるほどでした。この坂道は、夕暮(ゆうぐ)れどき村人が低い水田(すいでん)から、収穫(しゅうかく)した作物(さくもつ)をリヤカーに乗せて家路(いえじ)への主要(しゅよう)な道路だったのです。収穫が多ければ多いほど難所(なんしょ)でした。ここを通る人々に人気があり、「抱き上げ地蔵」と呼ばれて親しまれていました。子守(こも)りをする老人(ろうじん)や、お堂(どう)に雨宿(あまやど)りなどをする人がいて、難儀(なんぎ)なリヤカーの後を押してくれたのです。地域の絆(きずな)を感じる場でありました。それをいつもお地蔵さんは見ていたのです。そういう時は坂の上のお地蔵様にお礼を言って通っていました。困った時は、両手を合わせて願い事を言い「南無阿弥陀仏」を唱(とな)え、お地蔵様を抱き上げて軽く持ち上がれば願い事が叶(かな)うと言われていました。

このお地蔵さんには次のような民話(みんわ)が伝えられています。安城広報(こうほう)の昭和57年9月1日号に掲載(けいさい)されました。

わんぱく太郎といたずら次郎の兄弟(きょうだい)がおりました。母親のお使いで、畑に野菜を取りに行く途中、太郎はお地蔵さんに向かって「おい!しゃべってみろ!」と口を突付(つつ)きました。ばらばらと石の欠けらが落ちて口元(くちもと)に傷(きず)ができ怒(おこ)った口になりました。こんどは次郎が「お地蔵さん!寝ているのか起きてるのか!」と言って、細(ほそ)い目を鎌(かま)の先で突付きました。小さな石の粒(つぶ)が、ばらばらと落ちて泣いている顔になりました。

翌朝(よくあさ)、太郎が隣(となり)に寝ている次郎を起こそうとしましたが、口がぱくぱく動くだけで声が出ません。次郎は起き上がって、「見えん!真っ暗(まっくら)だ!何にも見えん!」と目をこすって言いました。母親がふたりの変わった様子を見て驚(おどろ)き、父親も駆(か)け付け、「この罰当(ばちあ)たりめが」と叱(しか)りつけました。母親は太郎の手をとり、父親は次郎を背負(せお)い、お地蔵様のところへ行き、皆で謝(あやま)りました。すると太郎は口が利(き)けるようになり、何日かして次郎の目も見えるようになりました。