明治航空基地跡(めいじこうくうきちあと)

明治航空基地跡

明治(めいじ)とは、元号(げんごう)の明治ではなく現在(げんざい)の安城市(あんじょうし)南西部(なんせいぶ)を指(さ)す名称(めいしょう)です。航空基地は、爆撃戦闘機(ばくげきせんとうき)の滑走路(かっそうろ)6本をはじめ弾薬庫(だんやくこ)から非常用(ひじょうよう)発電施設(はつでんしせつ)などを有(ゆう)し、その範囲(はんい)は、東端町(ひがしばたちょう)、根崎町(ねさきちょう)、和泉町(いずみちょう)にまたがり200haにおよびました。

1943(昭和18)年4月に、地元(じもと)の人々や学生を動員(どういん)して建設(けんせつ)が始められ、翌年(よくねん)の5月には未完成(みかんせい)のまま使われだしました。当初(とうしょ)の目的(もくてき)は、搭乗員(とうじょういん)の練成(れんせい)教育(きょういく)でしたが、戦局(せんきょく)が進むにつれて名古屋地区(なごやちく)に飛来(ひらい)する米機(べいき)の迎撃(げいげき)を任務(にんむ)するようになります。同年9月15日に第210海軍航空隊(ふたひとまるくう)が開隊(かいたい)されて、最大時(さいだいじ)で航空機217機、隊員4078名が所属(しょぞく)していました。

1945(昭和20)年1月13日未明(みめい)に起きた三河地震(みかわじしん)の被害(ひがい)は甚大(じんだい)かつ敗戦(はいせん)の色濃(いろこ)い国内(こくない)には情報発信(じょうほうはっしん)されず基地の隊員(たいいん)が軍(ぐん)の機材(きざい)をもって復旧(ふっきゅう)に当たりました。

同年3月には、二一○空(ふたひとまるくう)をはじめ全国の飛行隊(ひこうたい)は鹿児島(かごしま)へ集結(しゅうけつ)し米艦船(べいかんせん)への攻撃(こうげき)を開始(かいし)します。二一○空からの特別攻撃(とくべつこうげき)は4月6日と11日に行われ、計23名が帰らぬ人となりました。通常(つうじょう)攻撃の戦死者(せんししゃ)を含(ふく)めると40名を数(かぞ)えます。6~7月になると米軍の空襲(くうしゅう)が激(はげ)しくなり、本土決戦(ほんどけっせん)に備えて戦力(せんりょく)と燃料(ねんりょう)の消耗(しょうもう)を抑(おさ)えるため、攻撃には参加(さんか)せず機体(きたい)を隠(かく)し隊員は防空壕(ぼうくうごう)に避難(ひなん)することが多くなりました。

8月15日の終戦(しゅうせん)を迎え、多くの隊員は復員(ふくいん)し郷里(きょうり)に帰りましたが、接収要員(せっしゅうよういん)が基地に残り航空機の解体(かいたい)など武装解除(ぶそうかいじょ)を行い11月3日に占領軍(せんりょうぐん)へ引き渡されました。