西蓮寺(さいれんじ)

真宗高田派(しんしゅうたかだは)の寺院(じいん)で、西光明山(にしこうみょうざん)西蓮寺(さいれんじ)と言います。寺伝(じでん)では、939(天慶2)年、醍醐(だいご)天皇第4皇子重明(しげあきら)親王の子俊明(としあきら)が、当地で亡くなった母の菩提(ぼだい)を弔(とむら)うために一宇(いちう)を設けたのが始まりとされています。文化財(ぶんかざい)として「南蛮屏風(なんばんびょうぶ)」(県)、「都築弥厚茶室(つづきやこうちゃしつ)」(市)、「大公孫樹(おおいちょう)」(市)などがあります。

南蛮屏風

西蓮寺に伝わるものは、小型(こがた)で携帯用(けいたいよう)のものです。左隻(させき)には東南アジアの港を出港(しゅっこう)する風景(ふうけい)が、右隻(うせき)には日本の港に到着(とうちゃく)した様子がそれぞれ描(えが)かれています。間には珍しい動物や南蛮寺(教会)もあります。南蛮屏風は全国で約60双(そう)が現存し、この屏風は江戸時代に狩野内膳(かのうだいぜん)の図をベースに描かれたものと考えられます。

都築弥厚茶室

弥厚は茶道(さどう)や俳句(はいく)を嗜(たしな)む文化人(ぶんかじん)としても知られていました。明治用水(めいじようすい)の計画(けいかく)で多くの借財(しゃくざい)が残り、その一つとして東端村(ひがしばたむら)の大橋新五郎(しんごろう)が譲り受けました。それを西蓮寺に寄進(きしん)したのでここに移築(いちく)されました。岡崎(おかざき)の宋偏流茶人(そうへんりゅうちゃじん)不蔵庵龍渓(ふぞうあんりゅうけい)の作と推定(すいてい)されています。2畳(じょう)の本席(ほんせき)と4畳半の座敷(ざしき)とは壁(かべ)で仕切(しき)られており、一度(いちど)路地(ろじ)に出て飛び石を伝わって本席に達するように設計(せっけい)されています。

大公孫樹(おおいちょう)

市内で堀内町(ほりうちちょう)の公孫樹と二大巨樹(きょじゅ)となっています。樹高(じゅこう)は25m、胸高囲(きょうこうい)は3.2mを計(はか)ります。こちらは、雄木(おぼく)で銀杏(ぎんなん)はなりません。