宝林寺(ほうりんじ)

宝林寺(ほうりんじ)

矢作川(やはぎがわ)の治水(ちすい)で根崎村(ねさきむら)の発展(はってん)が大きく変わりました。1605年に開削(かいさく)され、1644年に堤防(ていぼう)が造(つく)られると、それまで東端村(ひがしばたむら)の一部(いちぶ)であった根崎には、美田(びでん)を求めての入植者(にゅうしょくしゃ)が多くなり1650年、一つの村として独立(どくりつ)しました。新しいまちづくりは、開拓民(かいたくみん)の心のよりどころとしての寺院(じいん)の建設(けんせつ)が必要(ひつよう)だと考えたのが、友国村(ともくにむら=現在の西尾市友国)から入植してきた鈴木清太夫(すずきせいだゆう)でした。直ぐに行動(こうどう)に移しましたが、目標(もくひょう)を達成(たっせい)することなくこの世を去りました。長男は父の志(こころざし)を受け継いで京都の東本願寺から許可(きょか)を取り付け、1653(承応2)年、雲松山宝林寺(うんしょうざんほうりんじ)を開(ひら)きました。開基(かいき)は「釈浄信(しゃくじょうしん)」と言います。

その後、明治維新(めいじいしん)での大浜騒動(おおはまそうどう)や太平洋戦争(たいへいようせんそう)終戦期(しゅうまつき)の二つの大震災(だいしんさい)など乗り越えて、本堂(ほんどう)の再建(さいけん)は1975(昭和50)年、そして、お非時場(ひじば)の完成、鐘楼門(しょうろうもん)の再建、庫裏(くり)の再建が2000(平成12)年とやってきました。比較的(ひかくてき)に新しい寺院です。