1174(承安4)年、樋口左衛門正則が源空(法然上人)の従者として近江(おうみ)から遠江(とおとうみ)へ下る途中、この和泉村(いずみむら)に道場を開いたのが始まりと伝わります。1468(応仁2)年、9代目の樋口正広が、蓮如(れんにょ)に教化(きょうけ)を受けて、「西蔵坊慶聞」の法名(ほうみょう)を賜(たま)わり、浄土真宗に転派しました。1556(弘治2)年夏、落雷による火災で道場を失いますが、集落の力で2年後には再建されました。1606(慶長11)年、尾州野夫村(現一宮市開明)円光寺の二休を道場主として養子に迎え、「本龍寺」と改めます。二休は、本願寺が東西分裂の時、教如(きょうにょ)を大津(おおつ)の四十九院(三井寺)まで送り届けたことがあり、教如秘蔵(ひぞう)で聖徳太子(しょうとくたいし)の遺作(いさく)と伝わる阿弥陀如来立像(あみだにょらいりゅうぞう)を授(さず)かり本堂に置きました。二休はその働きにより本龍寺中興の祖(ちゅうこうのそ)と言われます。しかし、その尊像は、1902(明治35)年1月13日の火災で本堂と共に焼失し、本堂は再建(さいけん)されたましが、1945(昭和20)年1月の大震災で再び倒壊、仮の本堂が2018年までありましたが、現在は改築(かいちく)されています。
日露戦争(にちろせんそう)後の町村大合併で「明治村」ができた時は、役場が本龍寺に置かれたり、村の盆踊りが境内(けいだい)で行われたりしていました。
明治用水(めいじようすい)の功労者(こうろうしゃ)である都築弥厚(つずきやこう)の墓は左側奥の方にあります。