桜井神社
平安時代(へいあんじだい)の「神名帳(じんみょうちょう)」に従五位(じゅごい)桜井天神(てんじん)と記(しる)されている古社(こしゃ)です。「神名帳」とは、「延喜式(えんぎしき)神名帳」のことで、当時官社の全国一覧表(いちらんひょう)です。2861社記載(きさい)されていました。
本殿(ほんでん)は、1527年、桜井城主松平親房(まつだいらちかふさ)が寄進(きしん)したもので、室町時代(むろまちじだい)の様式(ようしき)を残す近畿地方(きんきちほう)に多い流造(ながれづく)りの美しい屋根が特徴(とくちょう)の建物です。市指定の文化財(ぶんかざい)となっています。
徳川家の崇敬(すうけい)
松平清康(きよやす)は、三河国(みかわのくに)を平定(へいてい)した戦国大名(せんごくだいみょう)ですが、その本拠地(ほんきょち)は安城城(あんじょうじょう)であり、安城周辺に住む武士(ぶし)たちの活躍(かつやく)するところが大きかったと思われます。村々では、男たちを清康の戦う戦場(せんじょう)へ送り出す度に、戦勝(せんしょう)を祈願(きがん)して「三白山社(さんぱくさんしゃ)」へ「裸足参(はだしまいり)」の「お百度(ひゃくど)を踏(ふ)んだ」言います。祖父(そふ)の清康を尊敬(そんけい)していた家康(いえやす)は、このことを良く知っていて、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となった直後(ちょくご)に、「三河三白山社:大岡白山、上条白山、桜井」へそれぞれ138石、50石、50石を与え、修築造営(しゅうちくぞうえい)を命じたと伝わります。現在では、毎年10月末頃に大祭が行われ、8つの部落(ぶらく)が持ち回りでそれぞれの神楽(かぐら)を奉納(ほうのう)します。奉納するお囃子(はやし)や棒の手(ぼうのて)は無形民俗文化財に指定されています。
参道のクロマツ
一の鳥居(とりい)から拝殿(はいでん)へ導いてくれる参道(さんどう)の松並木(まつなみき)は実に立派なクロマツで、市指定の天然記念物として相応(ふさわ)しい景観(けいかん)を見せています。伊勢湾台風(いせわんたいふう)の被害(ひがい)で大きな痛手(いたで)となりましたが、14700㎡の境内(けいだい)に約200本の松並木は、樹勢(じゅせい)も旺盛(おうせい)で樹齢(じゅれい)が300年を超えるものや胸高囲3m、樹高25mを超えるものも何本か健在(けんざい)です。クロマツは安城市の「シンボルツリー」とされていますが、ここの松がモデルとも言われています。
桜井神社の由来(ゆらい)には、次の様なお話しが伝わっています。
むかし、紀伊の国(きいのくに)に熊勝(くまかつ)と言う人がいました。野田の郷(のだのさと)に住んでいましたので野田の熊勝と呼ばれていました。彼は、加賀(かが)の白山大権現(だいごんげん)を信仰(しんこう)しており、神官(しんかん)になるために修行(しゅぎょう)をしていました。つまり、修験者(しゅげんじゃ)でした。ある時いつものように加賀を目指して歩いている時、道端に光るものを見つけました。近づいてみると、金色(こんじき)に輝(かがや)く三寸(さんずん)ほどの観音様(かんのんさま)でした。大事(だいじ)に拾上(ひろいあ)げ、懐(ふところ)に入れて旅を続けました。いつの間に眠ったのか、夢の中で観音様が言われました。「わが庵(いお)は 三(み)つの流れの あお海の 桜の下に かりに住みなん」と。
熊勝は、三つの川があり碧海(あおいうみ)の近くで桜が咲いているところを探(さが)して歩きました。それが、三河国(みかわのくに)碧海郡(あおみのごおり)桜井村(さくらいむら)でした。ここに小さな祠(ほこら)を造り、白山のご神体(しんたい)である菊理姫命(くくりひめのみこと)をお祭りしました。養老(ようろう)2年9月16日のことです。これが桜井神社の始まりとされています。
白山(はくさん)とは、加賀(かが)、越前(えちぜん)、飛騨(ひだ)、美濃(みの)に跨(またが)る山地の総称(そうしょう)で、主峰(しゅほう)には御前峰(ごぜんがみね)標高2702m、大汝峰(おおなんじみね)標高2684m、別山(べつさん)標高2399mがある。冬は雪で真白になるのでこの名が有ります。農業(のうぎょう)に欠かせない大切な水をこの山地の雪が供給(きょうきゅう)するので、白山は水神・竜神が棲(す)む霊山(れいざん)として信仰されるのです。農耕(のうこう)の神様が祀(まつ)られている霊山です。