本多忠豊墓碑(ほんだただとよぼひ)

本多忠豊墓碑

1545(天文14)年9月、松平広忠(まつだいらひろただ=家康の父)は安城城奪還(だっかん)を目指していました。有利に戦い、安城城を守っていた織田信広(おだのぶひろ=信長の兄)を追い詰めますが、今一歩のところで尾張(おわり)から駆け付けた信秀(のぶひで=信長の父)の援軍(えんぐん)に挟撃(きょうげき)され危機(きき)に陥(おちい)ります。ここで、本多忠豊は主君(しゅくん)の広忠を岡崎(おかざき)へ逃がすため身代わりとなって敵中(てきちゅう)に突撃(とつげき)します。広忠は岡崎へ逃げましたが、忠豊はこの地に討ち死にします。後になって1794(寛政6)年、岡崎城主(じょうしゅ)となっていた子孫(しそん)の本多忠顕(ただあき)によってこの地に墓碑が建(た)てられました。本多忠豊とは、家康(いえやす)の時代(じだい)に徳川四天王(とくがわしてんのう)として活躍(かつやく)する本多平八郎忠勝(へいはちろうただかつ)の祖父(そふ)です。