本證寺(ほんしょうじ)

鎌倉時代(かまくらじだい)、慶円上人(きょうえんしょうにん)によって開かれました。15世紀後半には、蓮如上人(れんにょしょうにん)の教化(きょうけ)によって、浄土真宗(じょうどしんしゅう)の門徒(もんと)による寺院(じいん)の組織化(そしきか)が進み、岡崎市(おかざきし)の上宮寺(じょうぐうじ)、勝鬘寺(しょうまんじ)とともに三河三ヶ寺(みかわさんかじ)とされます。戦国時代の1563(永禄6)年、三河一向一揆(みかわいっこういっき)の時には徳川家康(とくがわいえやす)と敵対(てきたい)しました。当時は桶狭間(おけはざま)の戦いで、家康が今川氏(いまがわし)の人質(ひとじち)から解放(かいほう)された直後(ちょくご)のことです。一時、寺院は破却(はきゃく)されましたが20年後に赦免(しゃめん)され復興(ふっこう)します。江戸時代(えどじだい)になると、中本山(ちゅうほんざん)として、200を超える末寺(まつじ)を持ち、幕府(ばくふ)の将軍(しょうぐん)や住職(じゅうしょく)の代替(だいが)わりには拝謁(はいえつ)を許されるほどの高い格式(かくしき)を与えられました。堀や土塁(どるい)、本堂(ほんどう)、鼓楼(ころう)、鐘楼(しょうろう)などが当時のままの姿で残されており、歴史を研究するためにも貴重(きちょう)な史跡(しせき)で、2015年に、国指定の史跡になりました。

本證寺のハス

内堀に咲くハスの起源(きげん)は解りませんが、1899年(明治32年)の「三河三ケ寺野寺本證寺全図」ではきれいに咲いています。1994年(平成6年)を最後に見られなくなってしまいました。ハスの花の無い本證寺の景観(けいかん)は寂しいので、2010(平成22)年に地元の有志が立ち上がり「本證寺ハスの会」が作られました。内堀で繁殖(はんしょく)した外来種(がいらいしゅ)のカメやザリガニを駆除(くじょ)したり、堀そのものの清掃(せいそう)を行い、3年間を費やして再生(さいせい)に成功(せいこう)致しました。山門(さんもん)に向かって右に白、左に赤いハスの花が咲いています。現在も会の活動(かつどう)は続けられています。7月ごろが見ごろです。

寺宝(じほう)と伝説(でんせつ)

聖徳太子絵伝(しょうとくたいしえでん)などの絵画(かいが)をはじめ、工芸品(こうげいひん)、彫刻(ちょうこく)、古文書(こもんじょ)などの寺宝が豊富(ほうふ)です。樹齢800年を数える「イブキ」の大樹は、親鸞聖人(しんらんしょうにん)お手植えと伝わり、樹勢(じゅせい)はいまだ旺盛(おうせい)です。天然記念物に指定されています。

伝説①「性空(しょうくう)の大蛇退治・龍宮の淵」

慶円上人が性空を名乗(なの)っていたころのことです。村民が大蛇(だいじゃ)に苦しめられているのを知り、大蛇が現れるという龍宮の淵(りゅうぐうのふち)に、弓矢(ゆみや)を持ち短刀(たんとう)を懐(ふところ)に差して向かいました。そこに老人が現れ「坊主(ぼうず)の身で刀を持つのはなぜか?」と問答(もんどう)を仕掛けて来ました。性空は、「村民に危害(きがい)を与える大蛇を退治(たいじ)するためだ」と答え、更に「殺生(せっしょう)の破戒(はかい)を犯(おか)しても、善良(ぜんりょう)な村民を救い悪行(あくぎょう)の大蛇を退治するのも坊主の務めだ」と答えました。すると、問答に負けを認めた老人は淵の底に帰って行きました。その姿は、老人ではなく、大蛇でした。この時、性空が持っていた短刀は「朝日丸(あさひまる)」と言って、来国光(らいくにみつ)製作の名刀です。今も寺の宝として残されています。そして、老人は消える前に次の様に言い残しました。「後ろの醍醐山(だいごやま)の頂上から北へ向けて矢を放ち、落ちた所に道場(どうじょう)を開けばおまえの教えは広まるだろう」。性空は、その通りに矢を放ち、矢の落ちたところに道場を建てました。これが本證寺の始まりです。矢は松の木に突き刺さり、その松の木は、つい最近まで境内(けいだい)にありましたが、今は枯れてしまい、3代目「矢落の松(やおちのまつ)」と名札を付けた松が数百メートル西の八幡社(はちまんしゃ)に存在(そんざい)します。

伝説②「龍宮池(りゅうぐうのいけ)と貸椀伝説(かしわんでんせつ)」

境内(けいだい)の脇に池があります。内堀の一部ですが「龍宮池」と呼ばれています。この池に法要(ほうよう)などで足らない膳椀(ぜんわん)があると、「何人分」と紙に書いて浮かべると、次の日、池に浮いて来ました。この池は、地下で西尾市小島(おじま)の龍宮淵(りゅうぐうのふち)に続いており、この龍宮淵を棲家(すみか)とする龍神(りゅうじん)が揃(そろ)えて貸してくれるというのです。龍神とは、かつて慶円上人(きょうえんしょうにん)に問答で負けた大蛇が精進(しょうじん)した姿なのです。ある時、これを1人分返し忘れてしまいました。それ以来、二度と膳椀は池に浮いてくることはありませんでした。返し忘れたお椀は今も寺に残されております。県指定の文化財で「垣蔦文組椀(かきつたもんくみわん)」と言います。

伝説③「親鸞(しんらん)お手植えのイブキ・雨漏御殿(あまもりごてん)」

矢作(やはぎ)の柳堂(やなぎどう)で、親鸞聖人が説法(せっぽう)をされた時、慶円は野寺(のでら)に案内しました。親鸞聖人がお泊りになった書院(しょいん)は雨漏りがしたのですが、親鸞聖人の周(まわ)りだけは濡(ぬ)れませんでした。そして、そこに在った花瓶(かびん)の花が枯れているのを見て、新しい花にご自分で取り替えられました。この時、花瓶から投げ捨てられたのが「イブキの木」でした。その後、根が付き、樹齢(じゅれい)800年と推定(すいてい)され、巨木となって繁っています。県指定の天然記念物です。