丈山苑
江戸時代の初め、武士を捨てた石川丈山が、京都の一条寺(いちじょうじ)に建て、終の棲家(ついのすみか)としたのが詩仙堂(しせんどう)です。この詩仙堂を模(も)して、丈山出身の地に、和泉村(いずみむら)が安城市(あんじょうし)との合併(がっぺい)をきっかけに、郷土(きょうど)の英雄(えいゆう)として庭園まで含めて復元されたのが丈山苑です。旧明治村出身の渋谷良平(しぶやりょうへい)が私費を投じて和泉城址を公園にしました。それを、市が譲り受け1996年(平成8年)、「詩泉閣(しせんかく)」を建設し、庭園も模して開園しました。
古くここの地は、北側から東側が沼田になっていて、中本郷(なかほんごう)の間は掘割(ほりわ)りが存在し、中央は小高く天守台(てんしゅだい)の形をしていました。小規模ながら城の形をしているので和泉城(いずみじょう)と呼ばれていました。和泉城は、丈山の曽祖父・信治(のぶはる)が松平清康(まつだいらきよやす)に仕え、和泉郷(いずみのさと)を所領(しょりょう)して居を構えたところです。
詩泉閣(しせんかく)と庭園(ていえん)
丈山苑の核(かく)となる詩泉閣には京都詩仙堂ゆかりの三十六詩仙額(しせんがく)を始め、隷書体(れいしょたい)の書幅(しょふく)などが掲(かか)げられ、丈山の感性(かんせい)を偲(しの)ぶことができます。南前庭は京都詩仙堂の唐様(からよう)庭園、東側は東本願寺渉成園(しょうせいえん)枳穀邸(きこくてい)の回遊式(かいゆうしき)池泉庭園(ちせんていえん)、北側は一休寺酬恩庵(しゅうおんあん)の枯山水(かれさんすい)庭園を模した本格的日本庭園です。苑内には獅子脅(ししおど)しの音が聞こえ、丈山作の漢詩碑を読みながら、四季折々の風を感じるとき、ゆったりと一服(いっぷく)の茶を味わう悠々自適(ゆうゆうじてき)な丈山に触れることができるのではないでしょうか。庭園内を流れるせせらぎは、都築弥厚(つづきやこう)が手掛けた明治用水(めいじようすい)の水が流れています。
産湯井(うぶゆい)と望京橋(ぼうきょうばし)
北入口の右奥に、丈山の産湯井があります。昭和30年ごろまでは清水が湧(わ)き出ていたそうです。北入口から堀を登っていくと望京橋に出ます。橋の上から東を見ると、詩泉閣を通して庭園に座している丈山の銅像が見えます。丈山は今も京都を見ていると云います。望京橋は、29枚の板で渡してあり、和泉から京都までの距離29里(り)=約115kmを表しています。
詩仙の間(しせんのま)
狩野探幽(かのうたんゆう)が描き、自らの隷書をもって詩文(しぶん)を書いた中国36詩仙(しせん)の坐像(ざぞう)を一室の壁に掲(かか)げ、「詩仙の間」と名づけました。 唐(とう)・宋(そう)の名士(めいし)を一間(ひとま)に飾(かざ)ることによって最高の漢詩(かんし)の世界を現出(げんしゅつ)させています。
石川丈山翁の銅像
風かほる はをりはゑりも つくろはず 「はせを翁」
かぜかおる はおりはえりも つくろわず 「ばしょうおう」
狩野探幽が、80歳のときの石川丈山を描いた絵を見た芭蕉(ばしょう)が詠んだ俳句です。その絵をモデルにして制作した銅像で、庭園に設置され、詩泉閣を見通して京都を望んでいます。丈山は、朱子学(しゅしがく)を通して中国文化を愛したので、竹如意(ちくにょい)を持っていたり、僧服の着こなしも芭蕉には羽織(はおり)の襟(えり)がはだけているように見えたのでしょう。絵は探幽作の代表的なものの一つで、詩仙堂所蔵京都市指定の文化財となっています。
石川丈山
1583年(天正11年)、石川信定を父とし三男二女の長男として生まれました。幼名を孫助(まごすけ)と言います。身体が大きく、元気な子供で、4歳の時、橋の袂(たもと)で遊んでいると、母の叔父(おじ)である本多正信(まさのぶ)が野寺(のでら)の本證寺(ほんしょうじ)に行くというので、自ら同行を頼んで往復6里(り)の道を歩き通したと伝えられています。
16歳で家康の近習(きんじゅう)となり、嘉右衛門重之(しげゆき)と名乗ります。血筋も良く、人脈(じんみゃく)にも恵まれており将来の出世(しゅっせ)は確約(かくやく)されていましたが、33歳のとき、大坂夏の陣において、「先駆け(さくがけ)」と云う軍令違反(ぐんれいいはん)を犯し、蟄居(ちっきょ)させられます。これを、当時家康の知恵袋と言われていた本多正信(まさのぶ)がとりなそうとしましたが、重之はこれを断(ことわ)り、文人(ぶんじん)の道を選びます。剃髪(ていはつ)して妙心寺(みょうしんじ)に入り、林羅山(はやしらざん)を介して京都の藤原惺窩(せいか)に朱子学(しゅしがく)を学び、漢詩を作り始めます。その後、本多正純(まさずみ)の改易(かいえき)で、本多家に居た母が和泉に帰ることになったので、母を扶養(ふよう)するために丈山も和泉に帰ります。この時に作ったのが、次の漢詩「富士山」で、学友の林羅山に手紙を書いて出来栄(できば)えを聞いています。
仙 客 来 遊 雲 外 嶺 せんきゃく きたりあそぶ うんがいのいただき
神 龍 栖 老 洞 中 淵 しんりょう すみあらす どうちゅうのふち
雪 如 紈 素 煙 如 柄 ゆきは がんそのごとく けむりは えのごとし
白 扇 倒 懸 東 海 天 はくせん さかさまに かかる とうかいのてん
1623年(元和9年)41歳のとき、京都所司代(しょしだい)の板倉勝重(かつしげ)は丈山の窮乏(きゅうぼう)を心配して、安芸(あき)の浅野家に仕官(しかん)を勧(すす)めます。丈山はこれに、『母が天寿(てんじゅ)を全(まっと)うせば、自分は退官(たいかん)する』と文書に残して応じます。
浅野家は、丈山を2千石と云う高給で雇用(こよう)しています。外様大名(とざまだいみょう)である浅野家にとって、徳川の縁者(えんじゃ)である丈山は願っても無い重要な人物であったのです。丈山は「仕えることは素志(そし)に反するが、孝養(こうよう)を尽くすためついにこれを承(うけたまわ)りました。」と言っています。浅野家の公務(こうむ)で京都に滞在したり、使者として儀礼的(ぎれいてき)な場に出ても、家康近習時代の労が奏して、お役目が勤められたのでした。
1635年(寛永12年)、53歳の時、母が亡くなり隠居(いんきょ)を願い出ましたが許されませんでした。やむなく、「有馬温泉(ありまおんせん)に行く」と言って屋敷を抜け出して京都へ行き、相国寺(そうこくじ)近くで睡竹堂(すいちくどう)を営みます。ここで4年間を過ごしますが、この間も浅野家は給与を出していたようです。
1637年(寛永14年)1月18日、55歳の時、京都で朝鮮使節(ちょうせんしせつ)と儀式(ぎしき)に臨(のぞ)み筆談(ひつだん)をしています。この筆談で丈山は日本の「李杜(りと)」と称(たた)えられました。「李杜」とは、李白(りはく)と杜甫(とほ)を指し、中国では詩仙(しせん)、詩聖(しせい)と称える言葉です。これにより丈山の評価(ひょうか)が高くなりましたが、この年、勃発(ぼっぱつ)した島原の乱(しまばらのらん)のために、丈山が望んでいた帰郷(ききょう)はより難しくなってしまいました。幕府(ばくふ)が、豊臣(とよとみ)の残党(ざんとう)や浪人(ろうにん)の集まりを厳しく取り締まったからです。丈山へも監視(かんし)の目を向けられていました。この頃、京都所司代は板倉勝重から子の重宗(しげむね)に代っていました。重宗は丈山の身を案じて、徳川幕府への仕官を勧めましたが断ってしまいます。
1641年(寛永18年)、59歳の時、京都一乗寺(いちじょうじ)に詩仙堂(しせんどう)を築きます。そして、中国36詩仙を私撰(しせん)し肖像画(しょうぞうが)を掲げ、詩仙の間と称(しょう)して益々風雅(ふうが)を楽しみます。その後も名声(めいせい)に惹(ひ)かれての訪問者が多く、後水尾上皇(ごみずのおじょうこう)からも召(め)されますが、丈山は意(い)を和歌(わか)に託(たく)して固辞(こじ)しました。
わたらしな 瀬見(せみ)の小川の 浅くとも 老いの波そふ 影もはずかし
丈山は、望郷の念(ぼうきょうのねん)を抱(いだ)きながらも悠々自適の文人としての生涯をここで送り、90歳の天寿(てんじゅ)を全(まっと)うしました。命日(めいにち)は、1672年6月18日(寛文12年5月23日)です。現在は、和泉町内会が丈山祭の神事を銅像の前で行なっています。
林羅山は「詩仙堂記」に、「詩仙堂は何の為に作れる也、石川丈山、世を避けて遊ばん為に作れる也」と記(しる)しています。隷書には並ぶものがなく、造園(ぞうえん)、茶道(さどう)(特に煎茶(せんちゃ))でも後世(こうせい)に名を残しています。