桜井城址(さくらいじょうし)

桜井城址(さくらいじょうし)は桜の名所で城山公園(しろやまこうえん)となっています。桜井城は平地(へいち)に築(きず)かれた城で、平城(ひらじろ)と呼ばれます。周りにある軟(やわ)らかくて歩けない谷を自然の堀とし、それより少し高い台地の上に築かれました。築いたのは、この土地の豪族(ごうぞく)であった小浦喜平治忠重(こうらきへいじただしげ)だと言われています。松平信光(のぶみつ)が安城へ進出(しんしゅつ)した頃(1471年)に支配下(しはいか)となったと思われます。その後、親房(ちかふさ=長忠の弟)が桜井に入りますが子供に恵まれず、あらためて安城松平2代長忠(ながただ)の三男・信定(のぶさだ)を婿養子(むこようし)に迎えます。この信定が城の構(かま)えを整(ととの)え寺や街を作り、「桜井松平(さくらいまつだいら)」と呼ばれるようになりました。

信定は、西の勢力(織田氏)には友好的(ゆうこうてき)で、一時期(いちじき)本家の岡崎と同じくらいの力を持ちました。本家の松平清康(きよやす)が倒れ(守山崩れ)て松平が弱体化(じゃくたいか)した時、取って代わろうとして岡崎城に入りましたが、家臣団(かしんだん)を含む松平一族(いちぞく)をまとめきれず身を引いています。

そして、桶狭間の戦い(1560年)の後、徳川家康(いえやす)が治める三河では真宗(しんしゅう)の門徒(もんと)が一揆(いっき)を起こします。当時の桜井城主は信定から数えて三代目の家次(いえつぐ)でありました。家次は家康に背いて村民側(そんみんがわ)に加担(かたん)しますが、戦いには出陣(しゅつじん)せずただ籠城(ろうじょう)するだけでしたので和睦(わぼく)の時降参(こうさん)して許されています。領地(りょうち)も取り上げられることはありませんでした。

家康が江戸(えど)へ移るとき(1590年)に、桜井松平は武蔵国(むさしのくに)松山(まつやま)の城主(じょうしゅ)となり、信定が整えた桜井城は約70年で廃城(はいじょう)となりました。さらに摂津国(せっつのくに)尼崎(あまがさき)へ移り4万8千石の領地を治め、そのまま明治を迎えています。城址には桜井にいた城主の墓(はか)6基が残されています。菩提寺には、8代までと歴代夫人らの墓もあります。現在は、姓を「松平」から「桜井」に変え、東京都目黒区(とうきょうとめぐろく)に住んでおられます。