桜井山大超院菩提寺(さくらいざんだいちょういんぼだいじ)と言います。浄土宗です。桜井松平氏の菩提寺で、初代信定(のぶさだ)、二代清定(きよさだ=家重)、三代家次(いえつぐ)、四代忠正(ただまさ)、五代忠吉(ただよし)、家次三男忠広(ただひろ)、七代忠頼(ただより)、八代忠重(ただしげ)と歴代夫人(れきだいふじん)などの墓が9基並べて建てられており、位牌(いはい)も揃(そろ)っているそうです。
ここには、信州善光寺(しんしゅうぜんこうじ)にもある「戒壇巡り(かいだんめぐり)」を体験(たいけん)することが出来て参拝(さんぱい)する人がいます。
「戒壇巡り」とは、瑠璃檀下(るりだんした)の真っ暗なロの字型(ろのじがた)の回廊(かいろう)をめぐり、ご本尊の下に掛かっている極楽(ごくらく)の錠前(じょうまえ)に触れることで、極楽浄土(ごくらくじょうど)が約束(やくそく)される。と言う言い伝えです。
寺の起源(きげん)は、初代桜井松平の時、桜井神社の別当(べっとう)であった天台宗(てんだいしゅう)の桜井寺(さくらいじ)を、移転改築(かいちく)して桜井松平の菩提寺として堂宇(どうう)を建立(こうりゅう)したのが始まりです。開山(かいざん)は、堪誉直道(たんよじきどう)上人と言います。桜井松平の初代は信定(のぶさだ)で、安城松平2代目長忠(ながただ)の三男です。本家から分家に出て桜井城に入りました。
一時期、岡崎城(おかざきじょう)の宗家(そうけ)と同じくらいの力を持ちましたが、三代家次のとき、三河一向一揆(いっこういっき)では徳川家康(とくがわいえやす)に背(そむ)いて村民側(そんみんがわ)に味方(みかた)しました。しかしながら、和睦(わぼく)の時、降参(こうさん)して許されております。
そして家康の関東移封(かんとういふう=1590年)に伴い、武蔵国松山(むさしのくにまつやま)、さらに摂津国尼崎(せっつのくにあまがさき)へと移り明治(めいじ)を迎えています。現在では、姓を「松平(まつだいら)」から「桜井(さくらい)」に改(あらた)め東京都目黒区(とうきょうとめぐろく)に住んでいます。平成になってからですが、寺の先代(せんだい=38代)住職(じゅうしょく)の葬儀(そうぎ)には桜井当主(さくらいとうしゅ)の父子(おやこ)が揃(そろ)って参列(さんれつ)されたそうです。