蓮泉寺(れんせんじ)

初代(しょだい)小川城主(おがわじょうしゅ)石川政康(まさやす)の子康頼(やすより)が、名を明了(みんりょう)と変えて開いたと伝わります。

政康は、蓮如上人(れんにょしょうにん)との約束(やくそく)で、関東(かんとう)から三河(みかわ)に来て、小川に城と寺を造りました。城は小川城、寺は蓮泉寺です。本堂(ほんどう)には、蓮如と政康との出会(であ)いを画(か)いた絵(え)があります。季節(きせつ)の朝顔(あさがお)が画かれています。

1828(文政2)年、この三河地方(みかわちほう)は大きな水害(すいがい)に遭(あ)いました。この時、鹿乗川(かのりがわ)の改修(かいしゅう)という大事業(だいじぎょう)が計画(けいかく)され、いくつもの困難(こんなん)を乗り越えて完成させたのが大帳(おおちょう)の天野金右衛門(きんえもん)と岩根(いわね)の加藤吉右衛門(きちえもん)です。二人の墓がこの蓮泉寺にあります。

 

江戸時代(えどじだい)が終わり新しい明治(めいじ)では、信仰(しんこう)する物が大きく変わりました。その一つが、神仏分離令(しんぶつぶんりれい)で、その波に飲み込まれてしまったのが、この寺の優秀な僧侶(そうりょ)であった石川台嶺(たいれい)です。

台嶺は、その法律から寺を守るために、同じ考えを持つ仲間と「護法会(ごほうかい)」と言う仏教(ぶっきょう)と寺を守る会を作り勉強(べんきょう)をしていました。そして、事件(じけん)が起きたのは、1871(明治4)年3月9日のことです。大浜騒動(おおはまそうどう)と言います。

大浜騒動

寺院(じいん)の整理統合(せいりとうごう)が命じられた神仏分離令に対して、どのような対応をするのが良いか「護法会」は、その前日から岡崎市矢作町暮戸(くれど)の説教所(せっきょうじょ)で会合(かいごう)が行われていました。その結果、陣屋(じんや)へ法律の緩和(かんわ)を依頼(いらい)することになりました。陣屋とは当時の地方行政(ちほうぎょうせい)をするところで、現在の市役所にあたるところです。その陣屋は現在の碧南市(へきなんし)大浜(おおはま)に置かれていました。護法会の人たちは、暮戸を出て大浜へ向かいました。途中で農民たちも大勢加わり、安城市東町(ひがしまち)の法行寺(ほうぎょうじ)へ着いた時は数百人、ここで朝食とったと言われています。西尾市米津(よねず)では2~3千人に達していました。交渉(こうしょう)は難航(なんこう)し長時間に渡ったので米津の竜讃寺(りゅうさんじ)で待っていた農民たち民衆(みんしゅう)とお役人とがもみあいになり、1人の役人が犠牲(ぎせい)となってしまいました。この事件で、寺院の整理統合案は緩和されましたが、事件の首謀者(しゅぼうしゃ)として、護法会の中心的存在であった蓮泉寺の石川台嶺と城ヶ入(じょうがり)の若者で相撲(すもう)取りの榊原喜代七(きよしち)の2人が死刑(しけい)となりました。1889(明治22)年には赦免(しゃめん)され、護法有志の墓(ごほうゆうしのはか)が造(つく)られ、現在では蓮泉寺の西に置かれています。

この事件は殺傷事件の現場から「鷲塚騒動(わしづかそうどう)」とも、また、役人の藩名(はんめい)を採(と)って「菊間藩事件(きくまはんじけん)」とも言います。