柴田助太夫墓碑
墓碑は浜屋町北屋敷(はまやちょうきたやしき)の共同墓地(きょうどうぼち)の一角(いっかく)にあります。助太夫は、1677(延宝5)年、貧(まず)しい村人のために助郷役(すけごうやく)の免除(めんじょ)を願い出て死刑(しけい)になったと伝えられています。助郷とは幕府(ばくふ)や大名(だいみょう)が宿駅(しゅくえき)の村に旅の交通(こうつう)や文書(ぶんしょ)の輸送(ゆそう)に必要(ひつよう)な人馬(じんば)を負担(ふたん)させる制度(せいど)で、東海道(とうかいどう)の発達(はったつ)につれて農民(のうみん)への負荷(ふか)が重(おも)くなって行きました。しかし、助太夫の死と助郷制度の時期(じき)が異(こと)なることが指摘(してき)されており、別(べつ)の理由(りゆう)が有ったと言う説(せつ)もあります。刑が執行(しっこう)されたのちに許(ゆる)されて、村の人による寺・永安寺(えいあんじ)が建てられました。