崇福寺
713(和銅6)年に創建(そうけん)され、七堂伽藍(しちどうがらん)を有した臨済宗(りんざいしゅう)の大きな寺院(じいん)でした。永禄年間(えいろくねんかん)中(1558~70)に兵火(へいか)で焼失(しょうしつ)。慶長年代(けいちょうねんだい)1596~1615に入って千岩和尚(せんがんおしょう)が建立(こんりゅう)して、これが崇福寺の開山(かいざん)とされています。良人(りょうにん)には軽く、悪人(あくにん)には重くて持ち上がらないという重軽地蔵(おもかるじぞう)や賓頭慮(びんずる)、動物供養塔(どうぶつくようとう)などがあります。文化財(ぶんかざい)では室町時代(むろまちじだい)の絵画(かいが)で絹本著色阿弥陀三尊来迎図(けんぽんちゃくしょくあみださんそんらいごうず)を所蔵しており、これは市指定の文化財です。製作時代(せいさくじだい)が不詳(ふしょう)ですが、紙本著色釈迦三尊像(しほんちゃくしょくしゃかさんそんぞう)があり、また本堂(ほんどう)の中に「崇福寺」という山門額(さんもんがく)が掲(かか)げられていますが、これは勝海舟(かつかいしゅう)が書いたものを写(うつ)して木に彫(ほ)ったものだそうです。幕末(ばくまつ)の3舟「勝海舟(かつかいしゅう)、山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)、高橋泥舟(たかはしでいしゅう)」と呼ばれる彼らは明治政府の高官(こうかん)として、東海道(とうかいどう)を何度も往来(おうらい)していました。鉄舟の知人(ちじん)がこの近くに住んでいたため、彼らはここ崇福寺を宿(やど)とすることが多かったようです。この寺に彼らの書(しょ)が残っているのはこのためです。