殿さんのお墓(とのさんのおはか)

殿さんのお墓

宝泉院(ほうせんいん)の西に約100m、松林の中の墓地(ぼち)に五輪塔(ごりんとう)が3基きれいに並んで立っています。福釜松平(ふかままつだいら)氏の墓石(ぼせき)です。初代が親盛(ちかもり)、2代は親次(ちかつぐ)、3代は親俊(ちかとし)です。少し離れたところに、4代康親(やすちか)、5代康盛(やすもり)の墓もあります。

松平親盛(ちかもり)

安城松平2代長忠(ながただ=長親)の次男。家康からは曽祖父(そうそふ)信忠(のぶただ)の弟に当たる。13歳で安城松平の西の守りとして福釜城(はくまじょう)が与えられ福釜松平の初代となりました。町作りにも力をつくし、神社(じんじゃ・福釜神明神社)と仏閣(ぶっかく・宝泉院)の創設(そうせつ)をしました。1530(享禄3)年28歳の時、安祥城主4代松平清康(きよやす)に従軍(じゅうぐん)して東三河の宇利城(うりじょう)を攻めたときに討死(うちじに)をしました。戦死は親次(ちかつぐ)だとする説もあります。

福釜城址(ふかまじょうし)

1515(永正12)年、安祥城主二代目長忠(ながただ)が、安祥城の支城(しじょう)として築城。これを13歳の次男親盛(ちかもり)に与えて、安城の西を守らせました。これが福釜松平(ふかままつだいら)の始まりです。集落(しゅうらく)の東側を流れる長田川(おさだがわ)と西を流れる道田川(どうだがわ)とに挟まれた半島状の台地に建ち、守備条件(しゅびじょうけん)に恵まれた城でした。面積は6,000㎡程の方形で、それほど大きくはなかったと思われます。