安祥城址公園
1979(昭和54)年10月13日、安城市の公園として開園(かいえん)しました。それ以前は、水田の中にふたつの緑の丘があって、一つは城址(しろあと)に建てられた大乗寺(だいじょうじ)という寺院(じいん)と、もう一つは、かつての安祥城の守り神であり現在は村の鎮守(ちんじゅ)の森(八幡社)だけでした。周りは田園地帯(でんえんちたい)です。
大乗寺住職(じゅうしょく)のお話です。「昭和(しょうわ)の終わり頃、周りの湿地帯(しっちたい)を、お城のお堀(ほり)に見立(みたて)て花しょうぶを植(う)え、育(そだ)てたことがある。」と言われていました。
その頃、市域の亀塚遺跡(かめつかいせき)で人面文壺型土器(じんめんもんつぼがたどき=後に国指定の文化財となる)が出土(しゅつど)し、全国の同類(どうるい)土器を集めて展示会(てんじかい)が行われました。1986年10月のことです。安城市歴史博物館(あんじょうしれきしはくぶつかん)が開館(かいかん)したのが、その5年後の1991(平成3)年2月でした。
同時期に、公園のシンボルタワーである「笙の塔(しょうのとう)」も建てられ、雅楽(ががく)も公園内に流れています。その後、市民ギャラリーと埋蔵文化財センター(まいぞうぶんかせんたー)が建設(けんせつ)されて、公園の機能(きのう)だけでなく郷土(きょうど)の歴史や文化を研究する機能も持つようになりました。
現在では、「安祥文化(あんしょうぶんか)のさと」と呼ばれ、毎年秋に研究発表会をはじめとするお祭りが催(もよお)されています。
安祥城(あんしょうじょう)
別名「森城(もりじょう)」 と呼ばれた、天守(てんしゅ)を持たない平山城(ひらやまじょう)です。湿地(しっち)に突き出した台地(だいち)の先端(せんたん)に築(きづ)かれており、景観(けいかん)から「浮城(うきしろ)」とも呼ばれました。1440(永享12)年、畠山一族(はたけやまいちぞく)である和田親平(わだちかひら)が築城(ちくじょう)したと考えられています。1562年、廃城(はいじょう)となるまでの短い間に、激しい戦いが幾度(いくど)も行われて、和田氏→松平(まつだいら)氏→織田(おだ)氏→今川(いまがわ)氏へと持主(もちぬし)が移り変わりました。戦国(せんごく)の世(よ)を語(ものがた)っているお城です。
大乗寺(だいじょうじ)
院号(いんごう)を了雲院(りょううんいん)と言います。安祥城主・松平親忠(ちかただ)と勢誉愚底(しいよぐてい)上人により、それまでの天台寺院(てんだいじいん)を浄土宗(じょうどしゅう)に改宗(かいしゅう)して、城の東方台地上に開山(かいざん)されました。安祥城主四代の位牌(いはい)が安置(あんち)されています。境内(けいだい)の墓地(ぼち)には、安城村の領主旗本久永家(ひさながけ)の墓(はか)もあります。現在の堂宇(どうう)は1792(寛政4)年に移築(いちく)されたものです。
八幡社(はちまんしゃ)
安城初代松平親忠が、1479(文明11)年に創建(そうけん)し、鎮守の神として崇(あが)めたものです。安祥城の廃城後(はいじょうご)は東尾村(ひがしおむら)の氏神様(うじがみさま)として累代(るいだい)の領主(りょうしゅ)に各々崇敬(すうけい)されました。特に、1677(延宝5)年、時の領主稲垣数馬(いながきかずま)に石高3石1斗7升5合(こくだか3ごく1と7しょう5ごう)が寄進(きしん)されたと記(しる)されています。昭和(しょうわ)になり、戦後(せんご)は宗教法人(しゅうきょうほうじん)となり、12等級(とうきゅう)と認定(にんてい)され現在(げんざい)に至(いた)っています。
姫塚(ひめつか)
安祥城をめぐる戦(たたか)いで命(いのち)を亡(な)くした女性(じょせい)を集(あつ)めて弔(とむら)った塚と伝(つた)えられています。
善恵坊(ぜんねぼう)の碑(いしぶみ)
1544(天文13)年、松平勢(まつだいらぜい)が守る安祥城を織田方(おだがた)が攻(せ)めたとき、ひとり敵中(てきちゅう)に打って出て奮戦(ふんせん)した安城村の荒法師(あらほうし)・善恵坊を供養(くよう)した碑です。石碑(せきひ)には、「善恵坊は全身(ぜんしん)に鉄砲玉(てっぽうだま)を受け、宛(あたか)も蜂の巣(はちのす)の様だ。敵(てき)を睨(にら)み、倒(たお)れずに立ったまま死んだ」と書(か)かれています。
隅櫓(すみやぐら)
安祥城の隅櫓は、広島市立中央図書館に存在した縄張り図(なわばりず)によると、北と南にそれぞれ建てられていたように見える。北の櫓は、現在の県道(けんどう)を超えたところ、南の櫓は、本丸と東南の沼地の切岸(きりぎし)に土塁(どるい)を積んで建てられていた様子が窺(うかが)える。
切岸(きりぎし)
城館研究(じょうかんけんきゅう)で使われる用語(ようご)である。曲輪(くるわ)と堀(ほり)などを区画(くかく)した斜面(しゃめん)を切り落として険(けわ)しくし、敵(てき)の侵入(しんにゅう)を防(ふせ)ぐための城郭設備(じょうかくせつび)です。近世(きんせい)になると石(いし)を積(つ)んだ城壁(じょうへき)へと発展(はってん)します。もっとも、安城では石材(せきざい)が乏(とぼ)しく、古墳時代(こふんじだい)から石を利用(りよう)した史跡(しせき)は少ない。安祥城では、本丸(ほんまる)と二の丸(にのまる)の間に存在(そんざい)し現在(げんざい)でもその当時(とうじ)の形状(けいじょう)が残されています。
七ッ井(ななつい)
むかし、安城村(あんじょうむら)のあたりを七ッ井の里(ななついのさと)と呼び、とても良い水が得られました。中井、筒井、浅黄井、風呂井、梅井、桜井、柳井の7つです。筒井(つつい)は、竹千代(たけちよ)信広(のぶひろ)の人質交換(ひとじちこうかん)の時、竹千代が美味(おい)しさのあまり竹筒(たけづつ)に入れて岡崎城(おかざきじょう)に持ち帰ったと言われ、「筒井」の由来(ゆらい)となったと伝えられています。
本多忠高墓碑(ほんだただたかぼひ)
徳川四天王(とくがわしてんのう)のひとりと言われた本多平八郎忠勝(ただかつ)の父です。安祥城争奪戦(そうだつせん)で討死(うちじに)しました。江戸時代になって、子孫の忠顕(ただあき)が岡崎藩主(おかざきはんしゅ)になったとき、その戦死した地に墓が建立(こんりゅう)されました。功績(こうせき)が大きかったので亀の上に墓碑を建てることが許されました。忠高の父である忠豊(ただとよ)も同様に亀の上に立っています。