富士塚
安城城(あんじょうじょう)をめぐる合戦(かっせん)の戦死者(せんししゃ)を弔(とむら)うため築(きず)かれ、一番大きなものがこの富士塚(ふじづか)です。他に東条塚(とうじょうづか)、千人塚(せんにんづか=戦人塚)が残っています。堀平十郎塚、大道塚、古見塚、金蔵塚、大胴塚、赤塚、鏡塚、恋塚、貴人塚そして姫塚を合わせて十三塚(じゅうさんづか)と言います。今でも、戦いの有った6月6日には供養(くよう)の人がお参りに訪れます。
1540(天文9)年、尾張(おわり)から織田信秀(おだのぶひで=信長の父)が攻めてきました。刈谷(かりや)の水野忠政(みずのただまさ)を含めて約3000人の軍勢(ぐんぜい)です。迎撃(むかえう)つのは、この時の安城城代・松平長家(まつだいらながいえ)、広忠(ひろただ)の弟・信康(のぶやす)その他の援軍(えんぐん)を含めて約1000人でした。しかも、織田軍の主力は騎馬隊(きばたい)、松平は徒歩隊(かちたい)だったので、長家は城外(じょうがい)で戦う作戦(さくせん)を取りました。一度は織田軍を撃退(げきたい)しましたが、長家の討死(うちじに)をはじめ信康、そして、東条城の康忠(やすただ)など松平勢(まつだいらぜい)の主(おも)だった武将(ぶしょう)を失い、大敗(たいはい)をすることになりました。この合戦で、両軍合わせて1000人ほどの戦死者を出したと言われています。この時の一番の激戦地(げきせんち)がここ富士塚の辺りで、長家はこの辺りで討死したと伝わります。
この後、安城城は織田氏の居城(きょじょう)となり、信長の兄である信広(のぶひろ)が入りました。そしてそれから10年の間、織田と今川(いまがわ)の間で安城城の争奪戦(そうだつせん)が行われます。