安城陣屋跡(あんじょうじんやあと)

安城陣屋跡

1698(元禄11)年、旗本久永内記信豊(ひさながないきのぶとよ)が、碧海郡安城村(へきかいぐんあんじょうむら)、同郡米津村(よねずむら)、加茂郡加納村(かもぐんかのうむら)、同郡三箇村(さんかそん)に4354石(こく)を知行(ちぎょう)しました。その出先(でさき)の役所(やくしょ)を陣屋(じんや)といい、安城陣屋は安城村に設(もう)けられたものです。はじめは、現在の地より南の台地(だいち)の突端(とったん)にありましたが、その後移転(いてん)し、明治維新(めいじいしん)まで使われていました。

尚、久永氏は、信豊の祖父(そふ)・曽祖父(そうそふ)が大阪の陣(1614~1615)に御弓先の頭(かしら)として働(はたら)き、父重章(しげのり)が1638年14歳で将軍家光(いえみつ)に小姓(こしょう)として仕(つか)え、後に4000石の領地(りょうち)を与えられました。信豊は、領地を関東(かんとう)から三河の地に移されますが、4354石に加増(かぞう)で、江戸詰(えどづ)めでした。1703(元禄16)年には、赤穂浪士(あこうろうし)切腹(せっぷく)の検視役(けんしやく)を務めたということです。