大行日吉法印の墓(だいぎょうひよしほういんのはか)

大行日吉法印の墓と堂

安城市(あんじょうし)の西別所(にしべっしょ)に三河万歳(みかわまんざい)の始祖(しそ)として後世(こうせい)の人に慕(した)われている大行日吉法印の墓とお堂(どう)があり、その墓碑(ぼひ)の場所をもって、安城の三河万歳発祥(はっしょう)の地(ち)とされています。

大行日吉法印は、万歳師(まんざいし)をたばねて、徳川家康(いえやす)の庇護(ひご)を受けながら三河万歳を全国(ぜんこく)に広めました。三河万歳のはじまりは、室町時代(むろまちじだい)の初め頃とも戦国時代(せんごくじだい)とも言われています。この別所村には由緒書(ゆいしょがき)が伝わっており、それによると松平氏(まつだいらし)第七代清康(きよやす)以来、松平家のための祈祷(きとう)を行ってきたこと、江戸幕府(えどばくふ)発足後(はっそくご)も家康の命(めい)により推奨(すいしょう)されてきたことなど将軍家(しょうぐんけ)に縁(えん)が深かったことが述べられています。

お堂は、200m位南東(なんとう)の東別所地内(ひがしべっしょちない)にあり、大行日吉法印の木造位牌(いはい)と坐像(ざぞう)が祀(まつ)られています。位牌によれば、1597(慶長2)年に没(ぼっ)したとされていますが、松平氏が安祥城(あんしょうじょう)に進出(しんしゅつ)したころから、万歳師は矢避(やよ)けの祈祷をしたり、兵士(へいし)に余興(よきょう)を楽しませて戦場(せんじょう)まで付き従(したが)うようになりました。家康が関東(かんとう)へ移封(いふう)されると、関東17ヶ国の巡回(じゅんかい)を許され、その統率(とうそつ)を任(まか)されていた人物(じんぶつ)が大行日吉法印であったと言われています。

地元(じもと)では、毎年2月2日を「女の大行さん」、5月16日を「男の大行さん」と呼んで法要(ほうよう)が営(いとな)まれ現在(げんざい)に至(いた)っています。