円光寺(えんこうじ)

円光寺

伝教大師最澄(さいちょう)の門下で真空阿闍梨(しんくうあじゃり)が創立(そうりつ)した霊場(れいじょう)を、9代目の順空法師(じゅんくうほうし)が親鸞聖人(しんらんしょうにん)に帰依(きえ)して浄土真宗に改宗し形谷山円光寺(かたやさんえんこうじ)と改めたのが開基(かいき)とされています。四条天皇天福元年(1233)7月のことです。

戦国時代(せんごくじだい)、14世住職の順正(じゅんしょう)のときには、三河一向一揆(みかわいっこういっき)で徳川家康(とくがわいえやす)と戦い敗れ、順正は野寺本證寺(のでらほんしょうじ)の空誓(くうせい)を名乗って身代わりとなる戦死(せんし)をしました。妻子は、母方の姻戚(いんせき)を頼って丹波国古市(たんばのくにふるいち=現在の兵庫県丹波篠山市)へ落ち延びました。20年後に帰国復帰を許されて桜井郷稲納(さくらいのさといのう=現在の安城町稲尾?)に戻りましたが、江戸時代(えどじだい)になり幕府(ばくふ)より現在のところに境内地(けいだいち)を与えられて堂宇(どうう)を設けました。家康が鷹狩りの時は立ち寄って休泊したと伝えられます。

 

庫裏(くり)再建時の発掘調査(はっくつちょうさ)では、堀も確認されており、大きな鼓楼(ころう)が目立ち、城郭伽藍(じょうかくがらん)の様式(ようしき)を見ることが出来ます。この大きくて立派(りっぱ)な鼓楼は、江戸時代の末期、子供たちを集めて寺子屋(てらこや)が開かれていたと伝わります。

寺宝(じほう)には、10世住職の順智(じゅんち)が、越前(えちぜん)の吉崎御坊(よしざきごぼう=現在の福井県あわら市)にいた蓮如(れんにょ)を訪ねて弟子(でし)として仕(つか)えた働きにより与えられた絹本着色蓮如上人像(けんぽんちゃくしょくれんにょしょうにんぞう)、同じく證如(しょうにょ)上人像と方便法身尊像(ほうべんほっしんそんぞう)が二幅(にふく)、いずれも室町時代(むろまちじだい)の絵画(かいが)で市指定(ししてい)の文化財(ぶんかざい)となっています。