大浜騒動で命を犠牲(ぎせい)にしてしまった人たちが供養(くよう)されています。
大浜騒動とは、時の国の法律である神仏分離令(しんぶつぶんりれい)がその背景(はいけい)にあります。寺院(じいん)の整理統合(せいりとうごう)が命じられたその法律に対して、浄土真宗(じょうどしんしゅう)が盛んだった三河地方では仏教と寺を守る会「護法会(ごほうかい)」が作られました。
事件(じけん)が起きたのは、1871(明治4)年3月9日のことです。その日は前日から岡崎市暮戸(くれど)の説教所(せっきょうじょ)で会合(かいごう)が行われていました。どうしたら寺と仏教を護(まも)れるのか話し合われていたのです。その結果、陣屋(じんや)へ法律の緩和(かんわ)を依頼(いらい)することになりました。陣屋とは当時の地方を行政(ぎょうせい)するところで碧南市大浜(おおはま)に置かれていました。護法会の人たちは、暮戸を出て大浜へ向かいました。途中で農民たちも大勢加わり、安城市東町(ひがしまち)の法行寺(ほうぎょうじ)へ着いた時は数百人、ここで朝食とったと言われています。西尾市米津(よねず)では2~3千人に達していました。交渉(こうしょう)は難航(なんこう)し長時間に渡ったので米津の竜讃寺(りゅうさんじ)で待っていた農民たち民衆(みんしゅう)とお役人とがもみあいになり、1人の役人が犠牲(ぎせい)となってしまいました。この事件で、寺院の整理統合案は緩和されましたが、事件の首謀者(しゅぼうしゃ)として、護法会の中心的存在であった蓮泉寺(れんせんじ)の石川台嶺(たいれい)と城ヶ入(じょうがり)の若者で相撲(すもう)取りの榊原喜代七(きよしち)の2人が死刑(しけい)となりました。この事件は殺傷事件の現場から「鷲塚騒動(わしづかそうどう)」とも、また、役人の藩名(はんめい)を採(と)って「菊間藩事件(きくまはんじけん)」とも言います。
1889(明治22)年には,大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう)発布(はっぷ)で大赦(たいしゃ)され、東本願寺(ひがしほんがんじ)から行いを護法(ごほう)と認められ、墓碑(ぼひ)が建(た)てられました。「護法有志の墓」として蓮泉寺の西に置かれています。
また、台嶺が獄中(ごくちゅう)で記(しる)した「幽囚日誌(ゆうしゅうにっし)」が姫小川町(ひめおがわちょう)の誓願寺(せいがんじ)に伝わっており、当時の宗教観(しゅうきょうかん)や社会情勢(しゃかいじょうせい)が良く解るので、2018(平成30)年に市指定(ししてい)の文化財(ぶんかざい)となりました。