西心寺(さいしんじ)

川嶋山(せんとうざん)西心寺(さいしんじ)は、1615年、釈祐念(ゆうねん)により創建(そうけん)されました。祐念は、俗名(ぞくみょう)を「近藤善治祐其」と言い、関ヶ原戦(せきがはらのたたか)いには、父の善四と共に出陣(しゅつじん)した。父は、家康(いえやす)にも認(みと)められた弓(ゆみ)の名手(めいしゅ)であったが関ヶ原で戦死(せんし)。善治は大坂(おおざか)冬の陣(ふゆのじん)にも出陣し、戦場(せんじょう)で敵兵(てきへい)に組伏(くみふ)せられ首を切られた心地(ここち)がしたが、切られたのは戦場に持参(じさん)した蓮如上人(れんにょしょうにん)御染筆(ごせんぴつ)の名号(みょうごう)であって、身代(みが)わりを悟(さと)った。戦いから命(いのち)を持ち帰(もちかえ)った善治は、名を「祐念」と改(あらた)め、寺を開いた。名は父の法名(ほうみょう)から取って「西心寺」とした。本堂(ほんどう)は1830(1743かも)年再建(さいけん)。東本願寺(ひがしほんがんじ)火災(かさい)再建用(さいけにょう)の欅(けやき)が使わずに返却(へんきゃく)されたので、それをもらい下げ、総欅(そうけやき)づくりとなっている。軽(かる)くて堅(かた)いので、1945年の三河地震(みかわじしん)でも少し傾(かたむ)いたが倒(たお)れなかった。現在(げんざい)の住職(じゅうしょく)は17代目。

第12代目の祐了(ゆうりょう)は1840年頃、寺子屋(てらこや)を開(ひら)いており、100人を超(こ)える筆子(ふでこ)を出している。明治(めいじ)になり、小学校(しょうがっこう)の設立(せつりつ)には桜井村(さくらいむら)4つの小学校のうち第36番小学川嶋学校を西心寺の庫裏(くり)を校舎(こうしゃ)として始(はじ)まった。

本尊(ほんぞん)の阿弥陀如来立像(あみだにょらいりゅうぞう)、聖徳太子(しょうとくたいし)・七高僧(しちこうそう)の書像(しょぞう)や親鸞絵伝(しんらんえでん)などの寺宝(じほう)がある。珍(めずら)しいものでは、葵(あおい)の御紋(ごもん)が付いた位牌(いはい)が二つ有り、徳川家康(とくがわいえやす)と、もう一つは、11代将軍(しょうぐん)家斉(いえなり)のものと思われる。