三河山惣兵衛の墓(みかわやまそうべえのはか)

三河山惣兵衛 1789(寛政元)~1864(文久4)年

番付(ばんづけ)最高位は十両(じゅうりょう)でした。福釜(ふかま)村蔵前(くらまえ)で斉藤粂右衛門の次男として生まれ、少年時代から体格豪強(ごうきょう)で正義感も強く角力界(すもうかい)へ進みました。三河出身の力士(りきし)で清見潟又市(きよみがたまたいち)に弟子入りし、十両まで出世します。引退後は、旅頭取(たびとうどり)となり、大相撲の地方巡業をすることが出来る「四本柱免許」が与えられています。この免許には、日本相撲(すもう)協会相撲博物館々長の認定書(にんていしょ)が付いており、安城市指定の文化財となっています。現在この土俵(どひょう)の四本柱は認定書と一緒に福釜神明神社の境内(けいだい)にある福釜文化会館に保存・展示されています。

また、要人(ようじん)の警護(けいご)を勤(つと)めたこともあり、都築弥厚(つづきやこう)の随行(ずいこう)は欠かしていないようでした。ある時、弥厚江戸出府でのこと、大井川(おおいがわ)の渡しで、ひとりの若者が2~3人の雲助(くもすけ)に絡(から)まれて困っていました。誰も助ける者がいないので、惣兵衛は豪強な体格と強い正義感で、雲助を懲(こ)らしめ、若者を救いました。この若者がのちの七代目市川団十郎(いちかわだんじゅうろう)でありました。その後、団十郎一座(いちざ)は、福釜で2回、和泉(いずみ)で1回、御礼興行(おれいこうぎょう)を実施(じっし)しています。