和泉八剣神社(いずみはっけんじんじゃ)

和泉八剣神社

弥厚公園(やこうこうえん)から歴史(れきし)の散歩道(さんぽみち)を北に行くと、正面に大きな鳥居(とりい)が見えます。そこは北本郷古墳(きたほんごうこふん)のあった所で、現在は和泉八剣神社になっており、和泉町(いずみちょう)の鎮守(ちんじゅ)の森です。

八剣神社は、「延元(えんげん)年間(1336~40年)、南朝(なんちょう)の残党(ざんとう)16名が紀伊国和歌浦(きいのくにわかのうら)から漂着(ひょうちゃく)して住みつき、応仁(おうにん)の頃、八剣宮(はっけんぐう)を勧請(かんじょう)して祀(まつ)る」と石碑(せきひ)に記(しる)されています。従って、祭神(さいじん)は日本武尊(やまとたけるのみこと)です。1756(宝暦5)年に社殿(しゃでん)の建立(こんりゅう)があり、明和(めいわ)年間(1764~72年)に修理されています。北本郷古墳の発掘(はっくつ)では古鏡(こきょう)直径9cmで小型の内行花文鏡(ないこうかもんきょう)、管玉(かんだま)大小19個・大部分が碧玉(へきぎょく)製、古剣(こけん)剣2本と斧(おの)1本が出土(しゅつど)しましたが、古剣は腐食(ふしょく)が激しく原形(げんけい)を留(とど)めていません。

本殿(ほんでん)は、その後度々修理(しゅうり)改築(かいちく)を行いましたが、現在のものは1978(昭和53)年に造(つく)られたものです。手水舎は、平成(へいせい)天皇即位の大典記念事業として1990年に建設されました。

安城市(あんじょうし)の指定文化財(していぶんかざい)となっている絵馬(えま)6点がありますが、内4点は都築家(つずきけ)が奉納(ほうのう)した物で、海運(かいうん)の安全を祈ったものとおも思われます。その他、神社合祀令(ごうしれい)などにより多くの祭神が祀られています。

社口社・食堯速日命(みずはやひのみこと)・・・和泉村では一番古い神社です。マーメイドパレスの駐車場(ちゅうしゃじょう)の辺りにありました。蛇(へび)の神、水の神様と崇(あが)められ、和泉村が雨乞(あまご)いをすると必ず雨が降るといわれるほど御利益著(ごりやくいちじる)しい神様であります。古老(ころう)の伝言(でんごん)によると田畑(たはた)や川に大蛇が出て村人を脅(おびや)かすので神に祈ると、それ以後は現れず村人は安心して暮らしています。

稲荷社・宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)・・・明和(めいわ)年間(1764~72年)、北本郷(きたほんごう)の台地に田の神として建てられ、農耕(のうこう)儀礼(ぎれい)の発達から豊穣(ほうじょう)を祈念(きねん)する為、毎年2月の初午(はつうま)に祈念祭が行われていました。和泉村の鎮守神として崇(あが)められ、領主松平氏(まつだいらし)からも多くの神饌(しんせん)が奉納されて高い格式(かくしき)のお祭りが行われていました。

山神社・大山積命(おおやまづおおやまづみのみこと)・・・通称(つうしょう)山の神さまで、開墾(かいこん)の祖神(そじん)として、江戸時代末期早川新左ヱ門(はやかわしんざえもん)により招聘(しょうへい)されました。明治の初め頃に和泉村東庄司作(ひがししょうじさく)一番地より、現在の地に移築(いちく)し合祀されました。

神明社・大日孁尊(おおひるめのみこと)・・・大日孁尊は天照(あまてらす)大日孁命とも言い、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の別名(べつめい)です。都築弥厚が隆盛(りゅうせい)なときに守護神(しゅごじん)としていた神様で、神明地内(しんめいちない)の小高い丘の中央に祀られていましたが、没後(ぼつご)当神社に合祀されました。

御鍬社・大宣都比売命(おおげつひめのみこと)・・・開拓(かいたく)の祖神として招聘されました。杜若(かきつばた)高曽根(たかそね)あたりに祀られていたのを現在地へ合祀されました。

田扇社・豊受姫命(とようけひめのみこと)・・・豊受姫命は、屋船豊宇気姫命(やふねとようけひめのみこと)と言い、家屋(かおく)や船舶(せんぱく)の建設工事の安全と完成を司(つかさど)る神様で、上棟式(じょうとうしき)などに祀られる。「田扇(たおうぎ)とは、伊勢神宮(いせじんぐう)で行われる、田園(でんえん)の害虫(がいちゅう)を追い払う神事(しんじ)に使われる扇子(せんす)。弥厚は用水開削の成功祈願(きがん)を伊勢神宮に参拝(さんぱい)し、拝受(はいじゅ)して、持ち帰った扇子を神棚(かみだな)に奉祀(ほうし)していた。すなわちこの扇子は、豊受姫命のご神体(しんたい)なのです。弥厚の死後、八剣神社境内(けいだい)に遷座(せんざ)し田扇社として祀られました。

秋葉社・迦具土命(かぐつちのみこと)・・・農村は火災(かさい)が多く、火の守護神(しゅごじん)として崇(あが)められ、勧請(かんじょう)は、江戸時代の末期頃と思われます。現在も秋葉講(あきばこう)を組織して本宮へ毎年12月16日に代参の安全祈願を続けています。

邦中平和の常夜灯・日清戦争講和祈念(にっしんせんそうこうわきねん)・・・本殿左奥に、石垣の上に立つ大きな常夜灯(じょうやとう)があります。この常夜灯は1895(明治28)年、日清戦争が終わり村内の平和と安全を願って建立されました。正面上段に秋葉山・下段に邦中平和と刻まれ、右横に世話方講中の文字が刻まれています。三河地震(みかわじしん)で倒れ、数年はそのままになっていました。その後、解体修理され現在に至っています。