獅子塚古墳(ししづかこふん)

獅子塚古墳

獅子塚古墳は、全長が55mあり古墳時代初期の前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)です。明治時代の鹿乗川(かのりがわ)堤防(ていぼう)工事(こうじ)で、前方部が削(けず)り取られてしまいましたが、形は、獅子が北東を向いて臥(ふ)せている様に見えました。これには次のような伝説(でんせつ)があります。

村に難病(なんびょう)が蔓延(まんえん)した時、神主(かんぬし)の垣崎龍威(かんざきたつい)が神様に聞き「鬼門(きもん)に獅子(しし)を置き祈れば良い」とのお告(つ)げだと言うので、村人全員で獅子をかたどった塚を築き、社(やしろ)を建て、護摩(ごま)を焚(た)き祈りました。やがて難病は治(おさ)まったと言います。

また別の言い伝えでは、都から流れ着いた綾姫(あやひめ)の乳母(うば)が使っていた石(勾玉=まがたま)が埋葬(まいそう)されたので石塚だ。とか、乳母の名前が「小松いし」と言い、乳母が葬(ほおむ)られた「いし塚」が獅子塚と訛(なま)ったとも言われます。

現在は墳頂(ふんちょう)に秋葉神社(あきばじんじゃ)が祀(まつ)られており、病気の厄除(やくよ)けだけでなく、火災(かさい)の予防(よぼう)も祈(いの)られています。毎年9月下旬の土日にお祭りが行われています。

新しい一対の灯篭

2006(平成18)年のことです。3人の老貴婦人(きふじん)が安城市役所に来られまして「東町(ひがしまち)に在る秋葉神社に灯篭(とうろう)を一対(いっつい)、寄進(きしん)させて下さい」と言われて次のようなお話をされました。

私たちの先祖は、かつて岡崎の連尺町(れんじゃくちょう)に住んでおり、家具(かぐ)の製造(せいぞう)販売(はんばい)を営(いとな)んでおりました。30名の従業員(じゅうぎょういん)のいる「エビス屋」と言います。ある時、社長が行商(ぎょうしょう)をしている途中で休憩(きゅうけい)をしました。鹿乗川(かのりがわ)の流れが見えるところでした。ふと川面(かわも)に目をやると、静かな流れの渦(うず)の中に白いものがクルクル回っていました。水と一緒に流れていかないので、拾い上げてみるとそれは秋葉神社のお札でした。これは何かの縁(えん)だと思い、得意(とくい)の家具製造の術(すべ)で、神棚(かみだな)を造り、その神棚と一対の灯篭を納(おさ)めたそうです。

それから時が流れ、やって来たのは、1945(昭和20)年1月13日、M7.0の大地震(おおじしん)でした。神棚と灯篭は倒壊(とうかい)してしまいました。そしてその年の6月、岡崎の街は空襲(くうしゅう)で焼(や)かれ店も工場も焼失(しょうしつ)しました。しばらくして私たち3姉妹は、今の家にそれぞれ嫁(とつ)ぎました。

更に時が流れて、今(2006年)から3年前のことです。近くの温泉に行きました。1時間ほど経った時、台所(だいどころ)の火の消し忘れに気が付きました。大急ぎで自宅に帰ると、案の定(あんのじょう)、夕食にシチューを作ろうとして火にかけた鍋(なべ)がピリピリと音を立てて燃え出す寸前(すんぜん)でした。安堵(あんど)と驚(おどろ)きとの複雑(ふくざつ)な気持ちで声が出ませんでしたが、目の前の壁(かべ)を見ると「火の用心」のお札が光っていました。秋葉神社の神様(火之迦具土神=ひのかぐつちのかみ)が守って下さったのだと思いました。

3人で話をし、灯篭の寄進を決めてきました。どうぞ、東町の町内会長にお取次ぎをお願い致します。と言うことでした。

獅子塚古墳の埴輪(はにわ)

かつて桜井の古墳群では、葺石(ふきいし)や埴輪は発見(はっけん)されていませんでした。ところが、2010年に発掘(はっくつ)された出土品(しゅつどひん)の破片(はへん)が、その後の研究で埴輪の一片(いっぺん)であるだろうと言われ、その後も姫小川(ひめおがわ)古墳や塚越(つかごし)古墳でも発掘され、特に塚越古墳の物は円筒埴輪(えんとうはにわ)で、岡崎市域(おかざきしいき)の於新造(おしんぞう)古墳や和志山(わしやま)古墳の埴輪と同型(どうけい)で、古墳に埴輪を導入(どうにゅう)した時期(じき)が同じであることが解ってきました。これにより獅子塚古墳の築造(ちくぞう)時期は今までの考えが裏付(うらづ)けされたと言えます。