誓願寺(せいがんじ)

誓願寺

小松山(こまつやま)誓願寺と言います。誓願寺の創建については、寺伝によると綾姫(あやひめ)逝去の際(西暦681年)、それを葬ったのが起源だと伝わっています。その後、明応(めいおう)年間(1492~1501年)に、真宗(しんしゅう)の道場(どうじょう)と認められて本願寺(ほんがんじ)から阿弥陀如来(あみだにょらい)の絵画「方便法心尊像(ほうべんほっしんそんぞう)」が下付(かふ)されています。市指定の文化財です。その他に、宝篋印塔(ほうきょういんとう)二基と自然石の真宗墓碑(しんしゅうぼひ)が二基建てられており、いずれも市指定の文化財となっています。

宝篋印塔二基は、内藤重清(ないとうしげきよ)とその孫・清長(きよなが)のもので、自然石の真宗墓碑も内藤一族のものだと思われます。それぞれ次の様に銘文(めいぶん)が彫られています。

大永三年癸未歳(1523年)三月 十日 釋善伯正定聚位 宝篋印塔 内藤 重清

天文四年乙未歳(1535年)十月廿七日 釋善願正定聚位 自然石 内藤 甚重郎

永禄七年甲子歳(1564年)八月十二日 釋幽鎮真光覚位 宝篋印塔 内藤 清長

文禄三年甲午歳(1594年)四月 八日 釋幽善不退位  自然石 内藤 兵蔵

 

いずれも誓願寺に隣接していた内藤家の屋敷にあったものを寺に移したと記録されています。「正定聚位(しょうじょうしゅい)」とか「不退位(ふたいい)」と云う言葉から、この時期に真宗が浸透(しんとう)していたことが解る貴重な墓碑です。

内藤重清は、1493(明応2)年、岡崎の井田野(いだの)の合戦で、他の国人(こくじん)たちと連合して岩津(いわず)を攻めますが、安祥城の松平親忠(ちかただ)に敗れて仕えることになります。それ以降、内藤家は松平・徳川の重臣として活躍し、安城譜代の大名となります。清長は、松平清康(きよやす)に一字をもらい名付けられたと伝わります。家康の関東移封に従い、中仙道の出入り口として江戸と八王子の間に新しい宿場を設け「内藤新宿」と呼ばれたのは有名な話です。

江戸時代に入ると、上総(かずさ)佐貫(さぬき)城(千葉県)、駿河(するが)府中(ふちゅう)城(静岡)、摂津(せっつ)高槻(たかつき)城(大阪府)、磐城(いわき)平(たいら)城(福島県)、日向(ひゅうが)延岡(のべおか)城(宮崎県)などに配置され、子孫を残しました。現在でも宮崎県延岡市の内藤家から先祖供養料(くようりょう)が誓願寺に届けられるそうです。

寺子屋の指南(義鳳)

第39代住職義鳳(ぎほう)の墓石があります。筆子(ふでこ)によって建てられたもので巨大です。義鳳が逝去したのが1871(明治4)年、墓石が建てられたのが1888(明治21)年です。大浜騒動の時、蓮泉寺の石川台嶺(たいれい)とは同じ思いで行動を共にしていたようです。台嶺が獄中の生活を書き記した「幽囚日誌(ゆうしゅうにっし)」が、なぜか誓願寺で発見されました。生活の様子だけでなく、当時の宗教観や社会情勢なども伝わってくる大変貴重な資料で2018年に市指定の文化財となりました。

横綱白鵬

第69代横綱(よこづな)の白鵬(はくほう)は、入門当時(2001年頃)この寺の境内(けいだい)で稽古(けいこ)をしていました。名古屋場所の時は宮城野部屋(みやぎのべや)が誓願寺に土俵(どひょう)を置いていたのです。