姫塚古墳(ひめつかこふん)

直径(または一辺)が25 mほどの円墳(または方墳)です。南に少し離れて崖古墳(がけこふん)があり、繋(つな)がっていて前方後円墳だとも言われます。高さは約3.5m、墳頂には「姫宮墓(ひめのみやのはか)」と刻まれた中世の宝筐印塔(ほうきょういんとう)と五輪塔(ごりんとう)の一部があります。

町名「姫小川(ひめおがわ)」の起源(きげん)について次の様なお話しが伝わっています。

むかし、この辺りは萱口(かやぐち)と呼ばれていて、当時は海岸でした。

孝徳(こうとく)天皇の御世(645~654年)、2人の女を乗せた舟が流れ着きました。ずいぶんやつれた様子ではありましたが、身に着けている着物や言葉遣(ことばづか)いから高貴(こうき)な身分(みぶん)であることは容易(ようい)に分りました。村人は村長である小川伝太郎(おがわでんたろう)に相談して2人の女を助け上げることにしました。

村中で手厚い看護(かんご)と世話をし、二人は元気を取り戻しました。このことを都(みやこ)に知らせると、ひとりは15歳の皇女(こうじょ)・綾姫(あやひめ)であり、もうひとりはその乳母(うば)で名前が「いし」であることが分かりました。ところが、都へ帰ることは許されず、替わりに少しの生活費と4人の警護(けいご)の者が送られてきました。母である皇后(こうごう)さまの取計(とりはか)らいでした。4人の名は、長門数馬(ながとかずま)、都築大和介(つづきやまとのすけ)、野村出羽介(のむらでわのすけ)、河合大隅介(かわいおおすみのすけ)と言い、いずれも優秀な役人です。現在で言うと次官(じかん)クラスです。彼らは村人たちと力を合わせて、御殿(綾姫のお住まい)を作り食事の世話をしました。

こうして不自由のない平穏(へいおん)な日々を過ごすようになり、綾姫は村長の小川伝太郎に感謝(かんしゃ)をして、彼の名を残すことにしました。村の名前を「萱口」から「姫郷小川村(ひめのさとおがわむら)」と改(あらた)めたのです。36年の歳月(さいげつ)が経(た)ち、綾姫は、病(やまい)を得(え)て52歳の生涯(しょうがい)を終えられました。そして、都からの扶助(ふじょ)は絶(た)たれましたが、4人は、長門善太、都築平十、野村長九郎、河合藤太と名前を変えて郷に残ることとなりました。