紀伊国(きいのくに)野田郷(のだのさと)の修験者(しゅげんじゃ)であった熊勝(くまかつ)は718年(養老2年)ここ桜林(おうりん)の地に居を定め、菊理姫神(くくりひめのかみ)を奉祀(ほうし)して白山社(はくさんしゃ)と致しました。「桜井神社」を参照。
♪ 我が庵(いほ)は 三つの流れの 碧海(あおうみ)の 桜の下に仮に 住みなん ♪ 野田熊勝
この地方の三白山社(さんぱくさんしゃ)として栄え、徳川家の庇護を受けた桜井神社の神主(かんぬし)は、代々野田家が務め、明治維新を向えます。ここに慶長以後代々の墓碑が、整然と並べられており、石塔の変遷を知ることができる貴重な文化財であります。
山伏塚は、変形しており形状は定かでない。野田家墓地の側から見れば、直径8m前後、高さ1.5mほどの円墳(えんぷん)。南側の畑から見れば、東に存在する比蘇山古墳(ひそやまこふん)の西側に入り込む小さな開析谷(かいせきだに)に面して、北北東に前方部を向けた前方後円墳とも見ることができる。この場合、野田家墓地もその一部となり、全長は約40m、後円部の径は18m程度と推定される。しかし、古墳と認定する外部施設も出土遺物も認められていない。その頂上には室町時代の宝筐印塔(ほうきょういんとう)が置かれており、野田熊勝の墓石とも思われる。