専超寺(せんちょうじ)

 

816(弘仁(こうにん)7)年、弘法大師(こうぼうだいし)の草創(そうそう)と伝えられています。親鸞聖人(しんらんしょうにん)の柳堂説法(やなぎどうせっぽう)により真宗大谷派(しんしゅうおおたには)となる。その時のお言葉「専修横超(せんじゅおうちょう)」から寺の名前が付けられました。1411(応永(おうえい)18)年の本堂再建時の由来として、「黄金(おうごん)の桜」伝説を伝えています。明治の初めには、この寺に今村学校(いまむらがっこう)があって、寺の住職(じゅうしょく)が教えていました。当時(1875年)の教科書(きょうかしょ)と卒業覚書(そつぎょうおぼえがき)が残されています。江戸時代(えどじだい)の寺子屋(てらこや)がその前身(ぜんしん)です。となりの「ともえ幼稚園(ようちえん)」は、1953(昭和28)年に建てられました。また、境内(けいだい)には樹齢300年前後と推定される欅(けやき)の大木があり、市指定の天然記念物となっています。

 

「黄金の桜」伝説

1411年本堂再建の時、住職は7代目真良(しんりょう)。境内(けいだい)の地中に金の阿弥陀様(あみださま)を見つけたので、出現(しゅつげん)の地として石の柱を立てると、一株(ひとかぶ)の桜が芽生(めば)え、花が咲くと金色に輝いた。本堂を「黄桜閣(こうおうかく)」と名付けて、当時の公家(くげ)・西園寺家(さいおんじけ)に申し上げると実永卿(さねながきょう)より次の歌をくだされました。

♪ 弥陀仏の ひかり尊き 法の庭 黄金の色の 桜花咲く (みだぶつの ひかりとうとき ほうのにわ こがねのいろの さくらばなさく) ♪

この桜は、鬱金(うこん)の桜と云う種で、花は八重(やえ)で色が変わるのが特徴(とくちょう)です。現在は、5代目で1978(昭和53)年に植えられたものだそうです。2002(平成14)年の本堂修理(しゅうり)の時、今の位置に移して、実永卿の歌を刻(きざ)んだ石碑(せきひ)が建(た)てられました。満開時期(まんかいじき)が蓮如上人(れんにょしょうにん)の命日(めいにち)時期に重なるので、花見をしながら御祥月法要(みしょうつきほうよう)が行われます。食事(おとき)が出るので村の人は楽しみにしているそうです。「当山由緒縁起実録(とうざんゆいしょえんぎじつろく)」より。

 

 

専超寺の半鐘(はんしょう)そのⅠ・平和の鐘(かね)

2007年5月、安城消防署玄関(げんかん)に置かれていたのを偶然(ぐうぜん)に北部小学校の職員が見付け戻されることになりました。鐘に刻(きざ)まれている文字から、1909(明治42)年、清水屋(しみずや)と云う呉服屋(ごふくや)を営(いとな)んでいた岩月甚平(じんぺい)・きんご夫妻(ふさい)から、当時27代住職・良秀(りょうしゅう)の寺に贈られたものであることが判りました。そして、今村(いまむら)には、明治時代から立派な消防組織があり、村の人たちで運営(うんえい)されていました。1913(大正2)年には安城町10番目の公設(こうせつ)消防団となり、通称(つうしょう)第十部(だいじゅうぶ)と呼ばれました。1927(昭和2)年には火の見やぐらが出来、専用(せんよう)の半鐘も造られ吊(つ)るされたのです。その後、これが鉄製(てつせい)だったため戦争(せんそう)の金属供出(きんぞくきょうしゅつ)に会い、やぐらも鐘も無くなってしまいました。終戦を迎え、1950(昭和25)年に火の見やぐらは再建されましたが、鐘が無いため専超寺の鐘が吊るされました。その鐘が1970(昭和45)年、サイレンへと変わり、役目が終わりましたが、やぐらから降ろされても寺に返されることなく消防署の玄関に飾られていたのです。金属供出で戦争の道具(どうぐ)や鉄砲(てっぽう)の弾(たま)にならなくて、火災(かさい)からも市民(しみん)を守ったので「平和の鐘」と名付けられました。

専超寺の半鐘そのⅡ・飢餓警鐘(きがけいしょう)の鐘

2010年2月、愛知県立守山(もりやま)高校で数学(すうがく)を教えている宮沢哲先生から寄贈(きぞう)されました。先生は安城農林(あんじょうのうりん)高校の時、東栄町(とうえいちょう)の教員住宅に在住していたことがあり、今村の専超寺の名を知っていました。趣味(しゅみ)で集めた骨董品(こっとうひん)の中から、専超寺の喚鐘(かんしょう)を見つけ、定年退職(ていねんたいしょく)の記念(きねん)にと持って来られました。手に入れられたのはインターネットのオークションと云うことで、それより前の足取りは不明(ふめい)です。この鐘がなぜ寺を離(はな)れたのかも解りませんが、刻(きざ)まれていた文字「元文五庚申歳(げんぶんご かのえさるどし)」から、1740年に造られたもので19代目住職・観良(かんりょう)の時でした。8年前の享保(きょうほう)の大飢饉(だいききん)から立ち直った直後であったと思われます。その大飢饉の農民を救ったか救わなかったのかは分かりませんが、約270年もの歳月(さいげつ)を経(へ)て帰還(きかん)したので、30代目の住職・成樹(しげき)が「飢餓警鐘の鐘」と名付けました。