西岸寺(さいがんじ)

西岸寺

真宗(しんしゅう)大谷派(おおたには)の寺で、松林山(しょうりんざん)清秀院(せいしゅういん)西岸寺(さいがんじ)と言います。1667年、本山(ほんざん)である京都の東本願寺(ひがしほんがんじ)から拝受(はいじゅ)した高さ56cm余りの阿弥陀如来立像(あみだにょらいりゅうぞう)がご本尊(ほんぞん)です。開基(かいき)は1489(延徳元)年、松平玄番(まつだいらげんば)と寺の過去帳(かこちょう)に記録が有りますが、特定(とくてい)できません。この人、初代(しょだい)の住職(じゅうしょく)で「釈了玄」と言います。1547(天文16)年没しました。文化財は、室町(むろまち)時代の絵画(かいが)で「絹本著色方便法身尊像(けんぽんちゃくしょくほうべんほっしんそんぞう)」が市の指定に登録されています。

 

松林了観(まつばやしりょうかん) 1862(文久2)~1932(昭和7)年。福釜西岸寺の第14代住職。

松林了観は、碧海郡(へっかいぐん)福釜村で了響の長男として生まれました。京都本山の上等教校を卒業し、1888(明治21)年、28歳の時福釜(ふかま)へ戻りました。その時の青年の姿や農村の状況(じょうきょう)を見て、暮らしの改善(かいぜん)や農村の振興(しんこう)を図(はか)るには青少年への教育が必要と考え、修身(しゅうしん)、国語(こくご)、漢文(かんぶん)、理科(りか)などを寺の本堂で教えることにしました。まずは数人の青年を相手に、農閑期(のうかんき)隔晩2時間の教育を始めました。5年後には、隣村の古家を購入し、寺の境内(けいだい)に学舎(がくしゃ)として移築(いちく)しました。了観の指導(しどう)はかなり厳(きび)しかったそうで、大声で叱(しか)ることもあったようです。そんな時、なだめすかすのは奥様である「ちよの」だったようです。生徒には、勤労(きんろう)や節約(せつやく)を勧(すす)め、毎月、貯金(ちょきん)をさせました。こうして青藍夜学校(せいらんやがっこう)は約30年間、1918(大正7)年、安城町立実業補修学校の開設まで続けられて270名ほどの青年が学び育ちました。

この他に、杉浦彦次(ひこじ)造(つく)った報恩社(ほうおんしゃ)や福釜信用組合の設立(せつりつ)などにも尽力(じんりょく)しました。