熊野神社(くまのじんじゃ)

熊野神社

708年(和銅元年)、豊阿弥長者(とよあみちょうじゃ)の創建(そうけん)と伝えられます。この神社の森は、東進(とうしん)していた鎌倉街道(かまくらかいどう)が向きを南に変えていたので「踏分けの森(ふみわけのもり)」と呼ばれていました。現在は尾崎町(おざきちょう)の鎮守杜(ちんじゅのもり)で、毎年10月14日に大祭(たいさい)が行われます。鎌倉時代の工芸品・薬師如来懸仏(やくしにょらいかけぼとけ)と室町時代(むろまちじだい)の彫刻・木造不動明王立像(ふどうみょうおうりゅうぞう)を持っています。共に市指定の文化財です。

以下神社の前の街道沿いに一里塚跡、予科練の碑、鎌倉街道跡などがあります。

 

一里塚跡(いちりづかあと)

日本橋(にほんばし)から78個目の一里塚跡が安城市尾崎町(おざきちょう)の熊野神社南西の一角にあり、その石碑(せきひ)が建(た)ててあります。1604年(慶長9年)、徳川家康(とくがわいえやす)は全国の街道に一里塚を設置(せっち)しました。およそ9m四方の土地に4m程の土を盛り上げ「松(まつ)」や「榎(えのき)」を植えて目印(めじるし)にしました。当時の旅人(たびびと)はこれを目安にして旅をしたのです。

 

 

予科練之碑(よかれんのいしぶみ)

第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん)が熾烈(しれつ)を極(きわ)め、戦力(せんりょく)の増強(ぞうきょう)が急務(きゅうむ)となり、1944年(昭和19年)2月この地に岡崎航空基地(おかざきこうくうきち)を作りました。海軍(かいぐん)予科練習生(よかれんしゅうせい)は5月入隊(にゅうたい)の一期生(いっきせい)から12月の八期生(はちきせい)までおよそ6000名に及びました。

 

鎌倉街道(かまくらかいどう)

各地(かくち)から鎌倉に至る道路(どうろ)の総称(そうしょう)です。特に、鎌倉時代では、鎌倉往還(かまくらおうかん)、鎌倉道(かまくらみち)あるいは、鎌倉海道(かまくらかいどう)とも書いたようです。それらと区別(くべつ)するために京都と鎌倉の間は、京鎌倉往還(きょうかまくらおうかん)と言ったようです。ルートは、相模(さがみ)、駿河(するが)、遠江(とおとうみ)、三河(みかわ)、尾張(おわり)、美濃(みの)、不破関(ふわのせき)を越えて琵琶湖畔(びわこはん)から京都へ入りました。安城(あんじょう)地内では、京都から来ると、豊明(とよあけ)の二村山(ふたむらやま)から八橋(やつはし)に出て見渡しの良い原野(はらの)を行くと不乗森(のらずのもり)を通って踏み分けの森(尾崎の熊野神社)に突き当たります。ここから大きく右に折れて南下しておりました。後に作られた東海道(とうかいどう)は神社の前で鎌倉街道と交差(こうさ)したようです。一里塚跡(いちりづかあと)のところにその面影(おもかげ)が60mほど残っています。