日本晴育種記念碑(にっぽんばれいくしゅきねんひ)

日本晴育種記念碑

愛知県農業総合試験場・安城農業技術センターの北庭に建てられています。この試験場は、1903(明治36)年に清洲(きよす)にあった種芸部(しゅげいぶ)が最初(さいしょ)に移転(いてん)してきました。愛知県立安城農林高等高校の校長である山崎延吉(やまざきえんきち)が場長を務めました。山崎は、稲の品種改良(ひんしゅかいりょう)を行う研究(けんきゅう)スタッフを増強(ぞうきょう)するため、自分の教え子である、当時(とうじ)母校(ぼこう)である岡崎(おかざき)の高等小学校教員(きょういん)に就(つ)いていた岩槻信治(いわつきのぶじ)を招(まね)きました。最初の大きな仕事(しごと)は、大正天皇(たいしょうてんのう)の即位(そくい)に当たり、大嘗祭(だいじょうさい)で悠紀米(ゆきまい)を収穫(しゅうかく)し献上(けんじょう)することでした。この事業(じぎょう)の主任(しゅにん)は山崎延吉が任(まか)されており、悠紀斎田(ゆきさいでん)は碧海郡(へっかいぐん)六ッ美村中島(むつみむらなかじま)が選ばれていました。ここで岩槻は持てる力量(りきりょう)を発揮(はっき)します。山崎のもとで日夜(にちや)努力(どりょく)を重(かさ)ね、みごとに悠紀米を収穫・献上し、たいせつな使命(しめい)を果たすことに成功(せいこう)したのでした。信用(しんよう)と自信(じしん)を得(え)た岩槻信治は、その後も研究を怠(おこた)ることなく①美味しい②作りやすい③多収穫(たしゅうかく)を求めて品種改良を重ねて、「愛知旭」「千本旭」「金南風(きんまぜ)」などを開発(かいはつ)しました。その数、30種以上と言われています。岩槻は1948(昭和23)年、享年60歳で他界(たかい)しますが、この年に発表(はっぴょう)された「金南風」は1958(昭和33)年から4年間作付面積(さくつけめんせき)の全国1位を収め、戦後日本の食糧不足(しょくりょうぶそく)に大きく貢献(こうけん)します。その後も、岩槻の技術(ぎじゅつ)や精神(せいしん)を受継(うけつ)いだ試験場(しけんじょう)の技術者たちは、1963(昭和38)年に「幸風(さちかぜ)」とヤマビコ(東海7号)を交配(こうはい)した「日本晴(にっぽんばれ)」を発表します。良質(りょうしつ)と多収だけではなく、当時要求された機械化(きかいか)適応性(てきおうせい)にも応(こた)えた「日本晴」は国の奨励品種(しょうれいひんしゅ)に採用(さいよう)され、1968(昭和43)年から9年間、作付面積も全国1位を続けました。1976(昭和51)年には、水稲(すいとう)育成史上初の36万ha余りの最高を樹立(じゅりつ)して名実(めいじつ)共に日本一となりました。農業の機械化にも貢献することが出来て「育種『安城』」の名を全国に轟(とどろ)かすことになりました。現在でも「日本晴」は生産されており、お米の味(あじ)ランクを付けるときは、滋賀県産「日本晴」(しがけんさんにっぽんばれ)の味を標準(ひょうじゅん)として「A」や「特A」などを決められています。

石碑(せきひ)は、安城農業技術センターが新装(しんそう)されたのを機会(きかい)に1983(昭和58)年4月、地元(じもと)の農業関係者(かんけいしゃ)にもお力を借りて、この輝(かがや)かしい業績(ぎょうせき)を後世(こうせい)に伝えるため、ここに建設(けんせつ)されました。