杉浦源右衛門銅像
宝泉院(ほうせんいん)の北側に建っています。源右衛門は福釜(ふかま)村生まれで、村長や碧海郡会議員(へっかいぐんかいぎいん)で活躍(かつやく)をしました。明治用水(めいじようすい)での開墾地(かいこんち)の鍬下年期(くわしたねんき)を50年に延長したのが大きな功績(こうせき)です。鍬下年期とは、新しい開墾地は作物(さくもつ)が安定して収穫(しゅうかく)出来るようになるまで、税(ぜい)が免除(めんじょ)される制度(せいど)です。
当時、1891年(明治24年)は、愛知県会議員内藤魯一(ないとうろいち)の働きで、年期が10年の延長を認められていたところでした。それでも、安城ヶ原(あんじょうがはら)の開墾地はやせていて、肥料代(ひりょうだい)や配水料(はいすいりょう)などで、農民の生活は楽になっていません。そこで、源右衛門は継年期同盟会(つぎねんきどうめいかい)を組織して政府に直接お願いすることにしました。服装はモーニングに山高帽(やまたかぼう)とフロックコートで、安城と東京間を通うこと半年で30数回。碧海郡選出(せんしゅつ)の代議士・早川龍介氏経由で、時の大蔵大臣・松方正義(まつかたまさよし)氏(後の総理大臣・明治用水通水式参列)に会うことが出来ました。果たして、1901年(明治34年)、国会(こっかい)で年期延長の法案(ほうあん)が可決(かけつ)されたのです。源右衛門はこの喜びを早く伝えたくて、安城駅で汽車が停まらないうちに飛び降りて怪我(けが)をしたそうです。そして、その怪我の完治(かんち)を感謝して、明治川神社(めいじがわじんじゃ)に灯篭(とうろう)を寄進(きしん)しました。農家の人々が喜んだだけでなく、明治用水の成功や碧海の新しい農業が日本デンマークと呼ばれるほどになったのは、この業績(ぎょうせき)があったからだと言っても良いと思います。