大池公園
この池は、1931(昭和6)年に干ばつ対策(かんばつたいさく)に掘られて、掘り出した土は紡績(ぼうせき)工場を誘致(ゆうち)するために使われました。池の面積(めんせき)は1.5ha(ヘクタール)ですが、20haほどの工場用地(ようち)を埋め立てて造成(ぞうせい)することが出来ました。その後、防災上(ぼうさいじょう)の必要性(ひつようせい)から2006(平成18)年に洪水時(こうずいじ)の貯水池(ちょすいち)として整備(せいび)され大池公園としても市民の憩(いこ)いの場となっています。池の中にはカメや鯉(こい)、鮒(ふな)などがおり釣りを楽しむ人や散歩(さんぽ)をする人が訪(おと)れます。池の周(まわ)りを一周(いっしゅう)すると四国(しこく)88カ所霊場(れいじょう)巡りが出来るようにお寺の名前と仏さまが並べられています。
大平寺の鶏霊塔
1941(昭和16)年には、養鶏王国(ようけいおうこく)になった記念(きねん)として、池の隣に大平寺(たいへいじ)が建てられて、境内(けいだい)に鶏霊塔(けいれいとう)が建てられました。御幸本町(みゆきほんまち)にも白い石材(せきざい)の鶏霊塔があったのでこちらに移転(いてん)して、現在は二つ並んでいます。1917(大正6)年ごろからは、安城、高浜、吉浜の養鶏は農家の副業(ふくぎょう)として大いに家計(かけい)を助け、特に産業組合を通しての販売は丸碧(まるへき)の鶏卵(けいらん)として関東地方に送られて高値で取引されました。安城駅から出荷されてその日のうちに消費者(しょうひしゃ)に届けられる仕組みまで整(ととの)い大変好評でした。
養鶏が盛んになったのは、山崎延吉(やまざきえんきち)が、当時地元では「鶏博士(にわとりはかせ)」と呼ばれていた静岡県笠西村(かさにしむら=現在の袋井市)の高橋廣治(たかはしひろじ)を愛知県立農事試験場の主任(しゅにん)として採用(さいよう)し、養鶏の研究(けんきゅう)を始め、碧海地方に養鶏を勧(すす)めたからです。高橋は延吉の期待(きたい)に応(こた)え、鶏の研究だけでなく農家へ直接出かけて指導(しどう)したり、講演会(こうえんかい)を行ったりしました。講演会は会場に入りきれないほどの盛況(せいきょう)で、朝昼夕と1日に3回を連日行うほどでした。「声はかれ、睡眠不足(すいみんぶそく)は頭痛(ずつう)を起こし演壇(えんだん)に立つこともできなくなった」と回想(かいそう)しています。その後、月刊誌「養鶏之日本」や「養鶏の難問五百題」などを出版(しゅっぱん)して全国からの質問(しつもん)に答えています。さらに、アメリカの養鶏を視察(しさつ)し、ゲージ養鶏法を紹介し、そのゲージを屋外に出し青空の下が鶏の生理(せいり)に良いと提唱(ていしょう)しました。1955(昭和30)年に黄綬褒章(おうじゅほうしょう)、1965(昭和40)に勲四等瑞宝章(くんよんとうずほうしょう)を受けています。これらのことを海外(かいがい)にも拡(ひろ)げるため、1970(昭和45)年にはブラジルに渡り講演や実地指導を行い、ブラジル政府(せいふ)から産業功労賞(さんぎょうこうろうしょう)を与えられました。米寿(べいじゅ)を迎えた時、財団法人山崎延吉先生頌徳会(しょうとくかい)から表彰を受け次のように述べています。「一介(いっかい)の農夫(のうふ)であった私を引上げ、養鶏研究人として養成して下さった山崎先生に感謝(かんしゃ)する。」1979(昭和54)年、94歳で生涯(しょうがい)を全(まっと)うした時、高橋廣治は従五位(じゅごい)に叙(じょ)せられました。